見ている人は見ていると考えたら心強い
末期における教訓が尊いというよりは、むしろ生前の行為こそ真に崇敬すべき。
【『論語と算盤』人格と修養】
■手柄は譲っても、見ている人は見ている
お笑いの世界にも、笑いのアシストというものがあります。しかし、このアシストは芸人にとっての手柄である「笑い」を、他の芸人に譲ることを意味します。僕からすると、痛し痒しでもあります。
僕としては、「この時点で自分が笑いをとるよりも、アシストしたほうがより大きな笑いになる」と、とっさの判断でアシストしています。僕の心の中では、渋沢さんや松陰先生が話すように、「あとは誠心誠意、頑張るしかない」という精神論になってきます。
ただ、そのあたりの目に見えないものに突き進む感じは、正直、最初の頃は苦しかったです。でも、「この笑いの手柄は自分の手柄だ」と思っています。
たとえば、第三者がいて、その人の手柄にしたほうが丸く収まるのなら、「それでもいいかな」と考えるようにもなりました。
ただ、アシストした相手が、「いや、これは俺の手柄だろう」と思っていることもあると思います。そのときに、周りで見ていた人たちに、「えっ、あれ、大木だよ」と思ってもらえたら、それでいいかなと思うのです。
これもまた僕の仕事の一つだと最近、割り切りました。万が一、周りにそういう理解をしてくれていた人がいたならば、ラッキーと思っています。
しかし、「見ていてくれる人はいる」という気持ちを持てると、心強いです。「その手柄はどうぞ」というスタンスでやっていけます。