退職、訴訟…不健康な従業員を「放置するリスク」
健康に不安のある従業員、とくにメンタル不調の従業員を放っておくことは、企業にとっても大きなリスクになります。
不調をきたし辞めた従業員の一定数は、会社を相手に訴訟を起こします。それを機に産業医と契約する企業もありますし、ある企業は「1年前から契約していたことにしてください」と言ってきましたが、さすがにお断りしました。
仕事中に起きたケガであれば労働災害であることが明白なのですが、メンタル不調の場合は、原因が仕事かどうかを判断するのは、非常に難しくなります。訴訟になれば時間がかかります。
企業にとっては、たった一人の従業員のために、体力を消耗することにもなります。たとえ企業側に問題がなかったとしても、事業に悪影響を及ぼす可能性があるのです。
しかし、産業医が入っていれば、リスクを大きく下げることができます。訴訟がゼロになるとまでは言い切れませんが、確率を下げることができますし、仮に訴えられたとしても、スムーズに解決できるようになります。
企業側が従業員の健康について専門家に相談しているかどうかが責任の所在の判断に影響するからです。小規模事業者では社会保険労務士が健康問題まで引き受けているケースが多く、うまくサポートできずに訴訟に発展しているケースが多いのです。
従業員50人未満の事業場では産業医の選任義務はありませんが、専門家の意見を聞くことは法律で求められています。これを安全配慮義務と呼びますが、企業は規模にかかわらず従業員の安全に配慮しなければならないとされています。
企業にとって、従業員の健康管理は「法的義務」
従業員の健康管理は、企業の義務であることが法律で定められています。2008年に施行された労働契約法第5条には次のように書かれています。
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【労働契約法】
第5条 使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。
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一般的に従業員(労働者)は、企業(使用者)に配属を決められ、指定された場所で企業が用意した設備などを使って、仕事をしています。ですから、労働契約の内容として具体的に定められていなくても、当然、企業は従業員を危険から保護する配慮をすべき安全配慮義務を負っているとされています。
これは、民法等の規定からは明らかになっていないため、労働契約法第5条において、「企業は当然に安全配慮義務を負うこと」を規定したものです。
「生命、身体等の安全」の中には、心身の健康も含まれています。「必要な配慮」とは、一律に決められるものではないため、企業に特定の措置は求められてはいません。従業員の職種、労務内容、労務提供場所などの具体的な状況に応じて、必要な配慮をすることが求められています。
その代わりに、労働安全衛生法をはじめとする労働安全衛生関係法令においては、企業が講ずべき具体的な措置が規定されていますので、これらは当然に遵守する必要があります。
労働契約法には罰則規定がありませんが、安全配慮義務を怠った場合には、損害賠償の対象になることがあります。実際に裁判で損害賠償を命じられたケースがあります。安全配慮義務の内容を理解する上で参考になると思いますので、厚生労働省の「労働契約法のあらまし」に示されている裁判例を紹介しましょう。
公務員への安全配慮義務を怠ったとして「国」を訴訟
一つ目は陸上自衛隊事件(最高裁昭和50年2月25日第三小法廷判決)です。
この事件は、陸上自衛隊員が、自衛隊内の車両整備工場で車両整備中、後退してきたトラックにひかれて死亡したケースで、国の公務員に対する安全配慮義務を認定したものです。
陸上自衛隊員のDさんは、自衛隊内の車両整備工場で車両整備中に後退してきたトラックにひかれて死亡しました。これを受けてDさんの両親Xさんらは、国Yに対し、損害賠償を求めて裁判を起こしました。Yは使用者として、自衛隊員の生命に危険がないように注意し、人的物的環境を整備し、安全管理の義務を負うべきにもかかわらず、これを怠ったとして訴えたのです。
判決では、国と国家公務員(公務員)との間における主要な義務として、法は、①公務員が職務に専念すべき義務、②法令及び上司の命令に従うべき義務を負うとされています。これに対し国は、公務員に対し給与支払い義務を負うことが定められています。
しかし、国の義務は給与の支払い義務だけでなく、国が決めた場所や設備などを利用して上司の指示で公務を執行する場合、公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮すべき義務(安全配慮義務)を負っていると理解すべきとされました。
安全配慮義務は国と公務員の間でも求められているのです。
「勤務中の殺害事件」で企業に損害賠償を命じたケース
もう一つの裁判例は、川義事件(最高裁昭和59年4月10日第三小法廷判決)です。宿直勤務中の従業員Eさんが盗賊に殺害された事件で、企業に損害賠償責任があるとされました。
判決では、雇用契約は従業員の労務提供と企業の報酬支払いをその基本内容とする双務有償契約ですが、通常の場合、従業員は、企業の指定した場所に配置され、企業の供給する設備や器具などを使って、労務の提供を行います。
よって企業は従業員の生命および身体等を危険から保護するよう「安全配慮義務」を負っているとされました。
このケースでは、企業はEさん1人に昭和53年8月13日午前9時から24時間の宿直勤務を命じ、宿直勤務の場所を本件社屋内、就寝場所を同社屋1階商品陳列場と指示しています。
よって、宿直勤務の場所である本件社屋内に、宿直勤務中に盗賊等が容易に侵入できないような物的設備を施し、かつ、万一盗賊が侵入した場合は盗賊から加えられるかもしれない危害を免れることができるような物的施設を設けることが求められます。
また、これら物的施設等を十分に整備することが困難であるときは、宿直員を増員したり、宿直員に対する安全教育を十分に行うなどして、Eさんの生命、身体等に危険が及ばないように配慮する義務があったとされました。
心身の健康リスクが増加中…企業が講じるべき「措置」
労働契約法では、このように企業には従業員に対し安全配慮義務があるとされているわけですが、その一環として健康管理責任があるとされています。
前述のように労働契約法には、企業が具体的に取り組むべきことは示されていませんが、労働安全衛生法をはじめとする労働安全衛生関係法令に示されている具体的措置は、講ずべきとされています。どのようなことが求められているのでしょうか。
労働安全衛生法では、従業員の健康管理に関わるものとして、メンタルヘルス対策、職場における受動喫煙防止対策、治療と職業生活の両立などが規定されています。
厚生労働省は2020年4月に「事業場における労働者の健康保持増進のための指針」を公表しました。これは、労働安全衛生法に規定されている「事業場において事業者が講ずるよう努めるべき労働者の健康の保持増進のための措置(健康保持増進措置)」が適切かつ有効に実施されるよう、原則的な実施方法を定めたものです。
企業は、この指針に基づいて、事業場内の産業保健スタッフなどや必要に応じて労働衛生機関、医療保険者または地域資源などの事業場外資源を活用して、健康保持増進措置を実施することが求められています。
なお、すべての措置を実施することが難しい場合には、できることから順次、取り組むのが望ましいとされています。
富田 崇由
セイルズ産業医事務所
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