大恐慌下は「コロナ禍以上の絶望感・不安感・閉塞感」
バブル崩壊後の日本以上に経済が悲惨だった、大恐慌の頃の日本のベストセラー(図表3)はどうだったのでしょうか?
1929年というのはニューヨークの株式市場が大暴落し、世界大恐慌が始まった年です。この頃の日本は大正から昭和に移行したばかりでしたが、都会も農村も不況の影響を受けており、失業者が溢れていました。大卒の就職率は12%で、当時は数少なかった知識層の就職先も限られていました。その状況を皮肉るように、1929年には小津安二郎監督の映画『大学は出たけれど』が公開されています。これは、大学を卒業したが、職がない若者のことを、コメディタッチで描いた作品です。
農村では食べていくことができないほどの貧困が蔓延(まんえん)していたので、都会へ流入する人が増えていました。流入を減らすために、政府は、新聞に「東京に来たら餓死します」という広告を出すほどでした(※1)。農村の貧困を反映しているのか、当時の日本人の平均寿命はなんと42.3歳です。
1931年には、東京飯田橋の職業紹介所に募集が出た1500名余りのデパートの求人に1万人超が応募し、警察が出動する大騒ぎになった事件がありました(※2)。また、労働争議(スト)も多く、地下鉄、建設現場、道路工事、工場など、様々な職場で大規模な労働争議が起こることが当たり前でした。同じ年には満州事変が勃発します。
『西部戦線異状なし』は、ドイツのエーリッヒ・マリア・レマルクの長編小説です。第一次世界大戦で西部戦線に投入されたドイツ兵の体験を描いた作品ですが、戦争に突入していく日本の将来を暗示するような作品です。このような外国文学が最も売れていたというのは、当時は、今よりも書籍が高かったことや、本を読む層が今よりも少なく、インテリ層に限られていたのを反映しているのでしょう。
『東京行進曲』は、貧しい娘と富豪の子息との間の恋愛を描いた作品で、当時の社会の階級や矛盾が描かれています。失業者が溢れ、貧困層が増えていた世相を反映しているといえるでしょう。『太陽のない街』『蟹工船』は日本を代表するプロレタリア小説です。都会の貧民窟、労働者の搾取、タコ部屋、労働争議など、当時の労働者の生活の実態が描かれており、小説というよりもルポルタージュに近いものです。
このような小説を発表することが可能だった日本では、まだ言論の自由があったのですが、その後、特高警察による監視が厳しくなります。『蟹工船』の著者・小林多喜二は特高警察の拷問により亡くなります。
このように、戦争を危惧する書籍や、社会の暗黒部を描く書籍がベストセラーになっていたことから、当時の日本では、社会に絶望している人、希望を見出せない人が少なくなかった、ということがわかります。今の時代も大変ですが、当時は、比較にならないほど社会に閉塞感が漂っていたということです。
※1 http://syowakara.com/03syowaA/03history/historyS05.htm
※2 http://shokugyo-kyokai.or.jp/shiryou/gyouseishi/04-1.html