「デジタル民主主義は危険だ」と結論づけるのは早急
デジタル民主主義には、「小さな声にも耳を傾け、社会をより良い方向に変革し、民主主義を前進させていくことができる」というメリットがあります。しかし、もちろんいいことばかりではなく、デメリットもあります。
デメリットは大きく二つに分けられます。
一つ目は「インクルージョン」に関わることです。国民全体を巻き込むインクルージョンが達成できないと、デジタルツールにアクセスできる人、もしくはデジタル接続ができる人しか民主主義に参加できなくなる恐れがあります。すると、それ以外の人は、自分が除外されたところですべてが決められているような感覚を抱くでしょう。これは大きな問題です。
もう一つは「説明責任」に関わることです。説明責任とは、ひとことでいえば、「責任者が明快な答えを出す」ということです。デジタル民主主義では、ある程度の演繹法を使って問題の答えを導き出していきます。
しかし、それによって答えを見出せない場合もあります。そのときは、国民の声を聞いた上で、AIに最善の方法を求めるのが最も簡単な方法です。ただ、AIが出した方法が国民に理解してもらえないときにどうすればいいか。そこで政府が説明責任を果たさず、強引に問題解決を図ろうとしたら、それは独裁国家と変わりません。
しかし、こうした問題があるからといって、「デジタル民主主義は危険だ」と結論づけるのは早急だと思います。
確かに、アメリカのドナルド・トランプ元大統領のように、ツイッターによって独断的な意見を発信し、影響力を発揮しようとする人もいます。これを見て「デジタル民主主義は危険だ」と考える人も少なくないかもしれません。
しかし、考えてみれば、トランプ氏のような人物は昔から存在していたのではないでしょうか。たとえば、ラジオしかなかった時代に、扇動が得意な権力者がラジオの力を利用して、一つの国を軍国主義の道に引きずり込んだこともありました。
つまり、こうした危険性は情報発信能力があれば、いつの時代においても、どこの場所でもあり得ることであり、ネット環境とは直接的に関係はないのです。
たとえば、テレビで軍事パレードを大々的に放映することで、人々に指導者への崇拝を促すこともできるでしょう。それを行うにはツイッターは必要なく、大企業がテレビのチャンネルを持つだけで実現できてしまいます。歴史を振り返ってみても、第二次世界大戦はラジオやテレビから始まったと言っても過言ではないでしょう。
私が強調したいのは、デジタル以前のラジオやテレビのようなアナログの時代でも、民衆が扇動される危険性は存在していたということです。これはマスコミュニケーションにとって、ずっとつきまとう問題なのです。「インターネット環境をどのように調整していくか」という話ではなく、情報発信する力がある限り、この問題が消えることはありません。
たとえば、中国にはバイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイという四大IT企業があります。これらは独立した企業のように見えますが、中国共産党の支配下にあるという点で、同じような構造を持っているため、そこで生じる問題は、特定の企業の問題とは言えません。
要するに、すべての人の意見を一人が代弁し、「この人が言うなら仕方がない」という状況を作ることが危機を生むのだと思います。
しかし、私はこれとは正反対の考え方です。たくさんの人の意見を一人の意見に置き換えるのではなく、インターネット上ですべての人の意見をまとめる中から共通の価値観を形成することを目指しています。
先にも述べましたが、私はデジタルによって誰かの考えを変えるつもりはありません。古いシステムがどんなに悪いものであっても、私はそれらを否定し、変えるつもりはないのです。ただ、新しいだけのものよりも良いシステムを作って、少しずつ使い勝手の悪い古いシステムから離れていくように人々を啓発していこうとしているだけです。
「デジタル民主主義に危険がある」ということを認める一方で、「民主主義を前進させていくためにどのようにデジタルを役立てることができるか」を考え、活用していくことこそが大事なのだと思います。