震災、リーマンショック…創業以来の赤字を計上
トヨタの危機管理が本格的に始まったのは1995年の阪神・淡路大震災だった。その次に訪れた危機は災害ではなく、景気後退による需要の急減で、2008年のリーマン・ショックである。
同年9月のことだった。アメリカの投資銀行、リーマン・ブラザーズが破綻した。それをきっかけに世界的な株価下落、金融不安が起き、同時不況となったのである。
自動車業界も影響を受け、トヨタは翌2009年の決算で4610億円の赤字となった。これは創業期以来のことだった。リーマン・ショックでは先進国の新車需要は止まり、トヨタだけでなく自動車各社は赤字になっている。GM、クライスラー、サーブは破綻し、富裕層の固定客を持つ、あのポルシェまでもが苦境に陥った。
「他社に比べればトヨタはまだいい方じゃないか」
そんな声もなかったわけではない。
しかし、トヨタの現場には悲愴感が漂っていた。
「不況の時、減産に対しても利益を確保できる」ことがトヨタ生産方式の特徴とされていたのに、リーマン・ショックではそれがまったく通用しなかったからだ。
業績好調がゆえに…異常の顕在していた「危機」以前
同社の原則、トヨタ生産方式が形骸化していたことが明らかになったのがリーマン・ショックだった。
危機に至るまでの経緯は次のようなもので、リーマン・ショック直前までトヨタの業績は右肩上がりだったのである。
「2007年末時点でのトヨタの海外生産拠点(エンジンなどユニット工場を含む)は、27カ国・地域で53事業体を数え、それまでの10年間で1・5倍に増加した。また、日野自動車とダイハツ工業を加えた連結ベースの世界生産台数は、2000年の594万台から、2007年には950万台へと拡大していった。7年間で356万台の増加であり、年平均で約50万台の成長が続いた。トヨタの生産拡大は海外を中心に、年産能力20万台規模の工場を毎年2~3カ所新設するハイペースで進んだことになる」(『トヨタ自動車75年史』)
毎年、50万台の増産とは2年に1度、スバル(年産約100万台)と同じ規模の自動車会社ができるのと同じだ。人も設備も機械もどんどん増やしていって、コントロールが効かない状態になっていたのである。
そして、新設した工場ではトヨタ生産方式の指導が行き渡っていなかった。新設工場では部品在庫も完成車在庫も膨らんでいたのである。
当時の経営目標は「生産台数で世界1になること」。
経営陣が明言したわけではない。しかし、策定されていた「グローバルマスタープラン」は拡大偏重主義だった(赤字の年に社長になった豊田章男はすぐにそのプランを破棄している)。
現場では「1000万台を達成する」ために車を増産し、ヤードには車があふれ、完成車を積み込む自動車専用船の手当てに悩む状態だった。
そんな状態だったのに、誰も「止めろ」と言わなかった。
トヨタ生産方式の原則のひとつが異常の顕在化である。ヤードがあふれているのは異常だ。生産現場は自主的にラインを止めなくてはならなかったはずだ。ところが止められなかった。
リーマン・ショック時のトヨタはトヨタ生産方式を忘れていた。異常を見る目を持っていなかったし、顕在化させる決断もできなかった。
全社員が世界1の生産台数という目標に向かって走っていたため、現実よりも目標数字を見ていたのである。
まさしく危機だった。
では、彼らはどうやって危機に対処し、それを乗り越えたのか。