入院した90代の母が1週間で歩けなくなる
どんなにしっかりしていても、どれほど注意深く暮らしていても、年齢はあなどれないと感じた出来事が起きた。
ある11月の明け方、階下からすさまじい叫び声が聞こえた。妖怪の叫び声だ。火事か? それとも、かわいがっていたあの通い猫チーちゃんが死んだのか?
とにかく、尋常ではない叫び声にあわてて降りていくと、妖怪が頭から血を流しながら、ゴキブリのようにひっくり返り、手足をばたばたさせているではないか。
ピンピンの母の面影はなく、まんが日本昔話の「舌切り雀」にでてくるお婆さん。入れ歯を外した口もとがさらに老婆度をあげていた。
わあ、同じ人とは思えない! 本物の妖怪だわ!
「ああ…めまいがする。めまいが…ああ…」頭からは血がどくどくと流れているが、転んだわけではないらしい。トイレに行ったあと、めまいで倒れて頭を打ったのか、その辺がはっきりしない。
とにかく救急車を呼んだ。おそらく、わたしがこの状態なら、救急車を呼ぶこともなくそのままにしているだろうが、母は生きる意欲満々の人なので呼んだ。
病院に運ばれたが、救急室のドアはなかなか開かない。もしかして、半身不随になるかもしれない。元気とはいえいつ死んでもおかしくない高齢者だ。高齢者は、こうしたちょっとしたきっかけで死に至るのか。
妖怪、歩けなくなる
伝えられた病名は急性硬膜下血腫。聞いたことのない脳の疾患だが、ボクサーが頭を打たれたことが原因で亡くなることがある、あれだそうだ。
どの程度の損傷か調べるために、そのまま入院となった。大きな病気をしたことのない母にとり、入院は、相当のショックだったようだ。人間は不思議だ。入院患者になったとたんに妖怪は弱々しい年寄りになった。グリーンの貸パジャマを着た母が囚人に見えた。
父は若いときに結核を患い、療養生活を余儀なくされた経験をもつが、大きな手術で入院した経験はない。妖怪も、若いときは身体が弱かったようだが、入院手術の経験は確か、ないはずだ。
ありがたいことに、わたしは家族の付き添いで病院を訪れたことがない。
「よそのうちは、誰が入院だ、手術だって大変だけど、うちは誰もいないわね。ありがたいことね」
妖怪によると、欲をかかない生活をしているからだそうだが、そういうことにしておこう。