素人芸だが、師匠に認められた舞台度胸と素質
監督から紹介されたのは、小さな商業演劇の劇団だった。劇団の代表と看板女優を兼ねる村田栄子は、新派演劇の草分け的存在の芸術座にも在籍したことがあり、当時はそれなりに名を知られた存在である。
キクノは村田栄子を師匠と仰ぎ、本格的に演技の勉強をはじめた。劇団に入って間もなく、端役を与えられて初仕事となったが、まだ舞台に立つ自信はない。
が、できないとは言えなかった。劇団を追い出されたら、路頭に迷うことになる。住む家も貯金もない、ギリギリの状況は続いている。
退路を断たれた背水の陣、覚悟を決めて演じるしかない。
道頓堀の劇場で、楽屋裏から眺めた芝居を思いだしながら、見よう見まねで必死に演技をした。
素人芸ではあるが、師匠には舞台度胸と素質を認められたようである。その後も舞台に立ち続け、しだいにセリフの多い役を与えられるようになった。
キクノが在籍する劇団は、京都の中心部にある新京極の三友劇場を根城にしている。
江戸時代、三条通から四条通にかけてのエリアは、金蓮寺を中心とする寺院の境内が広がっていた。維新後の都市計画によって、寺域は縮小されて三条と四条を結ぶ新京極通が開通した。
しかし、寺院の境内だけに墓地だった場所も多く、商売人は出店をためらう。当初は沿道に空き地が目立つ、寂しい場所だった。
そこで、京都府当局は街の活性化を狙って、空き地に芝居小屋や見世物小屋を誘致した。人が集まれば、やがて空き地は飲食店や飲み屋に変わり、にぎわう街になるという目論見。それが的中して、明治中期頃には京都でも随一の繁華街に成長した。
簡素な芝居小屋は、常設の劇場や演芸場に建て替えられ、昭和期になると映画館も増えた。
キクノが三友劇場の舞台に立つようになった頃の新京極界隈は、東京の浅草と同様、京都における大衆文化の中心地となっていた。
それだけに、この界隈の劇場で人気の出てきた役者は注目され、もっと大きな有名劇団や映画会社からスカウトされることも珍しくない。