「三笠澄子」という芸名で女優になった
だが、いまは違う。
と、ある日。カフェーの女給仲間から、知人の映画製作会社が新人女優を募集しているのだが、それに応募してはどうかと耳打ちされた。女給仲間たちに「モダンな顔立ち」と評されるキクノは、女優に向いていると思われたようである。
この時代、女優になるのは現代よりもずっとハードルが低い。日本映画は歌舞伎の模倣から始まった。俳優にも歌舞伎役者が起用され、女性の役を女形が演じていた。江戸時代から女形に慣らされ続けた日本人は、それを違和感なく受け入れたようである。
しかし、大正期になると演劇界では新派の現代劇が流行るようになる。
歌舞伎のように型にはまらず、女性の感情の起伏をリアルに演じようとすれば女形だと限界がある。また、洋服を着るような時代設定だったりすると、体形からして違和感がでてくる。
そのため、女形の出番はしだいになくなり、本物の女性を起用するようになってきた。
映画もまた、歌舞伎の模倣からしだいに離れつつあった。欧米からの輸入映画では、女優があたりまえに出演しているだけに、女形から女優への転換は演劇よりも早かった。大正7年(1918)に日活向島撮影所が製作した『生ける屍』が、女形が起用された最後の映画だったとされている。
昭和に入った頃、映画は大衆娯楽の中心になりつつあった。繁華街で映画館を目にすることも多くなっている。それとともに製作本数は年々増えて、俳優たちも大忙し。
とくに女優の数はまだ少なく、どこの映画製作会社でも新人女優の発掘に熱心だった。しかし、この頃の女優の地位は低い。良家の娘たちからは、怪しい仕事と敬遠された。
また、女性の貞操観念が強かった時代である。夫でもない男性と手を取りあって愛をささやく演技など、普通に暮らしてきた娘たちには無理だ。
そこで目をつけられたのが芸者やカフェーの女給。酔客に寄り添いながら、疑似恋愛を演じている。それは女優の仕事にも通じる。
芸者が集まるお座敷、歓楽街のカフェーやダンスホールでは、映画関係者が遊びついでに、これはと思う娘たちを女優にスカウトすることがよくあった。当時の映画界には、芸者や女給から女優に転職した例は珍しくない。
紹介された小さな映画製作会社に出向いてみれば、形ばかりの面接と簡単な演技テストで即採用が決定してしまった。その日のうちに、「三笠澄子」という芸名までもらって、キクノは女優になった。
採用に立ち会った映画監督には、彼女が光るダイヤの原石と見えたのだろうか?
しかし、小さな映画会社の経営は厳しく、常に倒産の危機にあった。キクノが女優に採用されてから1ヵ月も過ぎぬ間に、自転車操業が行き詰まって会社の解散が決定する。ダイヤの原石がその真価を発揮することなく、女優廃業の危機に見舞われる。
また、カフェーの女給に戻るしかないか……と、諦め気分になっていた。
ところが、彼女の採用に乗り気だった監督が、
「君はいい女優になれるはずだ。本当なら自分の手で育てたかったのだが、残念だ。劇場の舞台で女優の勉強をしてみないか?」
そう言って、次の仕事を紹介してくれた。かなり気に入られていたようだ。