口入れ屋に紹介されたのはカフェーの女給
背に腹かえられず、カフェーの女給に
大正3年(1914)に完成した2代目の京都駅は、屋根の上にあるキューポラ(円頂塔)が特徴的なルネッサンス様式。内装も総ヒノキ造りと、豪勢だ。
当時は「京都停車場」とか「七条駅」と呼ばれ、北陸や山陰方面と関西地方を結ぶジャンクションとしてもにぎわっていた。
駅舎のなかを旅行客や荷物を担いだ赤帽、駅弁売りなどが気忙しく動きまわる。
不慣れな場所に戸惑い、何度も人にぶつかりそうになりながらも、キクノの表情は明るい。
鮮やかな朱色の鼻緒が付いた下駄が、軽やかな音を立てている。阿部野橋駅に着いた時、歯が擦り切れた下駄を買い替えていた。お洒落に身銭を切ったのも、これがはじめてのことだった。女性の化粧やお洒落には、自分を主張して自信をつけさせる効果がある。
この赤い鼻緒にも、その効果はあっただろうか?当時、下駄の値段は80銭~1円。キクノの所持する全財産の2割にもなり、電車賃を含めるとすでに半分を使っていた。
しかし、彼女はまったく心配していない。賃金や待遇で選り好みしなければ、女中の仕事はすぐに見つかるはず。住込みで食事も付くので生活費はかからない。
駅前広場に出て大理石のアーチを潜り抜けると、旅館や飲食店が建ちならぶ通りがある。口入れ屋も数軒あった。口入れ屋とは、雇用主から手数料を取って人材を紹介する私設の職業斡旋所である。求人情報誌のなかった当時、職を求める庶民がよく利用した。
キクノは、応対してくれた店員に、屋敷の住込み女中で働くことを希望した。富田林のお屋敷勤めは居心地良く、その印象が大きかったのだろう。
しかし、この日はあいにく彼女が希望する求人はなく、その代わりにと紹介されたのがカフェーの女給だった。酔客にお酌のサービスをして会話の相手になるのが仕事。いまの「キャバクラ嬢」のようなものだ。下心あって口説こうとする客も多いだけに、いかがわしい雰囲気はある。
しかし、背に腹はかえられない。所持金はあとわずか、今夜泊まる金もない。野宿する気にはなれなかった。
紹介されたカフェーは京都南部の深草にあった。口入れ屋で教えられた京阪電車の駅までは徒歩10分強。そこから伏見方面行きの列車に乗る。
車窓からは東寺の五重塔が見えた。憧れていた古都の眺めだが、いまのキクノにはそれを楽しむ余裕などない。清水の舞台から飛び降りる心境だった。