「自分を取るか、娘を取るか」と父親に迫る継母
暗く不遇の人生に、やっと見えてきた光。それを見失うまいと、必死にもがき続けた。しかし……。弱々しいかすかな光は、ある日、忽然と消えてしまう。小学校に通うようになって2ヵ月が過ぎた頃、継母が失踪してしまったのだ。
父親もまた妻を探して家を出て行ってしまった。なんとも、無責任な親たち……。
もはや学校に行ける状況ではない。幼い弟を抱えて途方に暮れた。幸い数日後には父親が継母を連れて戻ってきたが、その後も継母は、気にくわないことがあれば家出して、父親が慌てて追いかけることが繰り返されたという。
継母の家出癖は、キクノの存在も大きな要因だった。
「弟はしょうがないけど、この娘と一緒に住むのは嫌や」
自分を取るか、娘を取るかと父親に迫る。ひどい継母。だが、ここまで嫌われるのは、なにか理由がある。
年端もいかない幼い頃から、キクノは母親代わりに家を切り盛りしてきた。彼女にはその自負があったのだろう。そこに質素な農村の暮らしに合わない街中の女が、違うやり方で好き勝手なことをやりはじめる。
面白くない。「それは違う」と、意見することも多かったのではないか? 継母と継子は、ウマのあわない姑と嫁のような関係にあったのかもしれない。
問題は父親の反応である。彼はさほど悩むこともなく、我が子を家から追い払うことを了承してしまう。はたして、キクノは実の父親に愛されていると感じることはあっただろうか? 貧困にくわえて親の薄情が心をさいなむ。
近隣に住んでいた母方の祖母の計らいで、キクノは大阪へ女中奉公に出されることになった。9歳の秋のこと。小学校に通っていれば3年生である。
明治44年(1911)には、労働者保護を目的とした工場法が公布され、義務教育を終えていない12歳未満の者を就業させることが禁じられた。
また、大正期になると庶民の子でも、尋常小学校卒業後は2年制の高等小学校や職業訓練学校に進学する者が多くなる。大正9年(1920)に実施された第1回国勢調査では、12〜14歳の有業率は男子30.6パーセント、女子28.8パーセントとなっている。
この時代でも尋常小学校卒業後の12歳で仕事に就くのは、少し早すぎるというのが世間一般の感覚。ましてや義務教育を終えていない子どもを働かせるのは、近代国家では違法行為である。当時としても珍しい。
「九才と申せば、まだ普通一般の家の子供でしたらその家によっての貧富の差こそあれ、慈愛深い両親のひざもとで小学校に通っている年ごろ、両親そろっていないまでも、そんな小さい子供が奉公に出るなどということは、そのころ、どこにもザラにあることではありませんでした」
『水のように』には、このように綴られている。普通の人々にはありえない不幸な境遇、幼い彼女はそれを自覚していた。
若い頃の貧乏自慢や不幸自慢を語る芸能人は多い。過酷な運命に打ち勝った者にとって、それは成功の証でもある。諦めず運命に抗い続けた者だけに、過去の不幸を自慢して話す機会が与えられる。
しかし、多くの者は運命に押しつぶされて自暴自棄となり、さらに不幸の深みに落ちてしまう。この後に訪れるさらに過酷な不幸にもめげず、彼女は不幸自慢をする権利を得ることになる。