恥をかなぐり捨て挑んだ初舞台の報酬
便所に隠れて、必死に漢字を学ぶ日々
キクノは陽が昇る前から起きて飯を炊く。炊飯器のない時代、薪を燃やして飯を炊くのは手間がかかり、かつては家庭の主婦たちが最も嫌う仕事だった。
店では多い日に1000を超える注文がある。これだけの飯を炊くだけでも、かなりの重労働だ。
炊きあがった飯は、板前たちが料理と一緒に重箱に盛りつける。その重箱を茶屋に届け、客が食べ終わった重箱を回収して洗う。終わったら鍋釜を洗い、炊事場の掃除をして……。すべての仕事を終えた頃には、夜はかなりふけている。
さらに仕事の手が空けば、主人一家の用事や子守りまでやらされた。朝起きてから寝るまで休む間もなく働き続ける。ぐずくずして手間取れば、寝る間も削って働くことになる。食事もゆっくり味わう時間はなく、炊事場で立ったまま、数分で食べるのが常。それでさえ、
「おちょやん、ちょっと」
呼ばれると、箸を止めてすぐに行かねば、𠮟られる。
屈辱も嫌というほど味わわされた。
ある日、買物に行って釣り銭を落としてしまった。2銭の小銭であるが、ケチな主人に「落としました」と言っても納得してくれないだろう。
彼女は思案したあげく、芸を披露して銭を稼ごうと考えた。道頓堀や近隣の裏路地には、滑稽噺や猥歌を披露して小銭を稼ぐ者たちが多くいた。法界屋などと呼ばれた最下層の芸人だが、その真似事をしたのである。
「歌わせておくれやす」
意を決して、顔見知りの店に飛び込んで歌を披露するが、相手は子どもがふざけているとしか思わず取りあってくれない。
それでも、くじけず次の店へ……。繰り返すうち、4軒目に入った薬屋の主人が、事情を聞いて同情し金を恵んでくれた。2銭銅貨を握りしめて薬屋を出た時、恥ずかしさで顔が真っ赤になり、目には涙がにじんでいた。
ホテルのボーイがチップにもらっても、「ケチな客だな」と鼻で笑いそうな小銭である。それが、恥をかなぐり捨て挑んだ初舞台の報酬だった。
仕出し料理店に戻ると、帰りが遅いことにいら立った主人から𠮟責された。事情を話してお釣りの2銭を渡したのだが、
「ホントに落としたんか?」
疑いの目を向けてくる。泥棒扱い。これまでも色々と悔しい思いをさせられてきたが、この一件だけは彼女の心に生涯残る深い傷をつけた。