アートは最先端の思考と感性の技術なのです
荒廃した未来における水筒をデザインする
本質的な問いを立て、新たなイノベーションを起こす試みは、すでにアートの世界で行われています。2012年、ヴェネチア・ビエンナーレと並ぶ世界規模の大規模国際展「ドクメンタ13」に、デザイン・エンジニアリング集団、タクラム(Takram)が出展した作品“Shenu:Hydrolemic System”は、その典型例です。この作品は「荒廃した未来における水筒をデザインする」という課題に対する答えとして、タクラムが考えたものですが、タクラムが制作したのは、高機能な水筒などではなく、人工臓器を中心とするプロダクト群でした。
タクラムが考案した作品の一群は、水の逸失を抑えるために連携して機能する仕組みで、この人工臓器を持つ者は、持たない者に比べ、水の摂取が制限できるようになっています。つまり、人体が必要とする水分を極限まで抑え、体内にとどめるためのシステムなのです。
これを、具体的に説明すると「生命維持に最低限必要な栄養分やホルモン、32ミリリットルの水分を含んだ飴玉を1日に5粒摂取する」「鼻からの呼気に含まれる水分を結露させ体内に留める鼻腔内器具」「血液の温度を一定に保ち、発汗を抑制するための人工血管」「膀胱内の尿を極限まで凝縮し得られた水分を腎臓に返す膀胱内器具」「大便に含まれる水分を効率的に大腸に吸収させる直腸内器具」となります(「Takram」HPより)。
人間の身体そのものを水筒にする
では、なぜ「荒廃した未来の水筒をデザインする」課題に対して、「人工臓器」という解答にまで、思考を飛躍させることができたのでしょうか?
ここで、この問いを解説してみます。そうすることで、アートで行われている「問いを立てる」行為の根底になる考え方を理解していただけるのではないかと思うからです。
タクラムは、リサーチと分析を繰り返した結果、水質汚染等により供給可能な水が極端に限られた未来の世界では、現状の延長上にある水筒を考案することは、現実的でないと判断しました。よく考えると、差し迫った環境においては、人間が一日に排泄、排出する水分を極限まで少なくすることで、人体が必要とする水分を少しでも少なくする必要があるのではないかという結論に至ったのです。
「では人体が水分を必要としなくなるためには、どうしたらよいのでしょうか」。その問いが、最終的に人工臓器を含む新しい一連のプロダクト群として結実したのです。
「荒廃した未来に人間が生きるための水分をどう確保すればよいか」という、本質的な問いに対して、高機能な水筒をつくるのではなく、発想を大きく飛躍させ、「人間の身体そのものを水筒にする」というアイデアにすることで、まったく新しい形の人工臓器を提案することができたのです。
このように俯瞰した視点で問いを立てることで、「思考の飛躍」が可能になります。アートは、最先端の思考と感性の技術なのです。この話を聞いて、たかが未来の水筒をデザインするのに、何も人間の身体を改造しなくてもいいのではないかと思う人もいるでしょう。また、人間の身体を変えてしまうという想像力の横暴に対して、倫理的な危機感を感じたり、常識からの逸脱を感じる人もいるかもしれません。
しかし、この提案は100年後の壊滅的な出来事が起きた後のディストピアな地球を想定したもの(かなりリアルですが)であり、それらに真剣に向き合い、「リサーチと分析を繰り返した結果」のアイデアなのです。こういうものに対して、自由に可能性を検討し、冷静に面白さや弱点を指摘できる遊び心が欲しいものですし、それと同時に倫理的、哲学的にも耐えうる精神を鍛えたいものです。そのためにも自らの心に存在する凝り固まった価値観のリミッターを外すことが、必要になります。