芸術は自らの目的を探し求めて主義主張してきた
■大きな物語から小さな物語へ
20世紀には様々な芸術運動が起こりましたが、その大半が「~イズム(主義)」と称するものです。フォービスム、キュビスム、表現主義、ダダイズム、シュールレアリズム、抽象表現主義、ネオ・ダダ、ポップアート、ヌーヴォーレアリスム、コンセプチュアルアート、ミニマリズム、新表現主義、シミュレーショニズムなどです。
細かなものを挙げればキリがないほど、芸術は自らの目的を探し求めて様々な主義主張を行ってきたのです。デュシャン、ボイス、ウォーホルなどの巨匠たちもこのイズムの時代に生きたアーティストたちです。
ところが、冷戦構造が崩壊した1989年以降、運動と呼べるものはほとんど生まれていないという事態が起こります。まさに「進歩発展型の芸術の終わり」です。
以後、無風状態の中でアートは展開することになるのですが、さてこの事態をどのように受け取るかでずいぶんと歴史の見方は変わってきます。単純に「芸術の終わり」と受け取るか、それともまた別の何かが始まるのかということです。
ダントーの予想では、最初、現実の模倣であった芸術が、次にはイデオロギーの時代になり、それぞれが競い合うが、それもすぎると、次第に「何でもあり」のポストヒストリカルな時代に入る。その時代は、もはや「こうあらねばならない」というものがなくなる時代になる、といいます。
このようなことを80年代の同じころに言っていた政治経済学者がいます。アメリカの学者でフランシス・フクヤマです。彼が1989年に発表した論文「歴史の終わり?」も同様の歴史の見方をします。この本は日本でも出版され話題となりました。社会主義が終焉を迎え、自由主義と社会主義のイデオロギーの対立が終わり、社会の平和と自由が永遠に続くという仮説でした。社会が無風状態になるというのがポイントです。
弁証法を使いながら論を展開する方法や歴史の進化論的展開は、ダントーと同じくヘーゲルを模したものですが、実際は、社会は次々と新しい課題を迎えているというところで、フクヤマが思った時代にはなりませんでした。アートも同じように次々と新たなものが生まれてきています。ただかつてのように進化論的な、あるいは一元的な、大きな物語では語れなくなったのです。
やがて大きな物語から小さな物語へ、そして日常の暮らしや人々の関係へとテーマも変化していき、大掛かりなプロジェクトや物量を誇る作品から、コミュニティや社会などをテーマにした作品へ、また、アーティストたちの活動拠点も分散していきます。