始まりは「死者の霊を封じ込めるため」…お墓の歴史
お墓の語源や由来については諸説ありますが、有力なのは「果処(はてか)」や「葬処(はふりか)」だといわれています。さらには、生と死の間が遥かだという考えから「遥か(はるか)」や「儚し(はかなし)」だという説も有力だといわれています。
漢字としては、墓の「莫(ばく)」の部分は太陽が草の中に沈んで隠れることを示しており、墓には死者を見えなくする盛土という意味があります。
〈古代日本の墓は「死者の霊を封じ込める」意味が〉
日本の埋葬の文化をさかのぼっていくと、縄文時代にいきつくといわれています。この頃はまだ今のような墓はなく、単に穴を掘り、そこに亡くなった人をかがめるような姿勢にして埋めるというものだったようです。のちに遺跡として、遺体を埋めたと思われる穴が見つかり、土坑墓(どこうぼ)と呼ばれています。なお、土器が副葬されていることも多く、この頃すでに、埋葬に故人を弔う意味が込められていたと考えられています。
弥生時代になると、遺体とともに装飾品を埋めるといったことも行われていたようです。一説によると、古代は死者に対して畏怖の念が強く、遺体から魂が抜け出して生きている者に害を及ぼさないよう、あるいは魂が鎮まるように封じ込めるという考え方が埋葬の習わしにはあったといわれています。
権力者や貴族だけが建てた…「お墓」は高い身分の証
〈古墳時代のお墓は「権力の象徴」〉
紀元後3世紀頃になると、時の権力者が亡くなった際に巨大なお墓が建てられるようになりました。いわゆる古墳で、紀元後7世紀頃まで大きな古墳がいくつも建てられていたため古墳時代と名付けられています。
最も有名なのは、大阪の仁徳天皇陵ではないでしょうか。全長486mもある巨大な前方後円墳で、クフ王のピラミッド(エジプト)、始皇帝陵(中国)と合わせて世界三大墳墓と呼ばれています。ただし、古墳はあくまでも権力者のお墓であり、庶民のお墓は縄文時代とほとんど変わらない形式だったようです。
〈仏教伝来後、宗教観と結び付く〉
巨大な古墳の建立は、飛鳥時代に入り大化の改新で「薄葬令(はくそうれい)」という勅令が出されたことで終わりを告げました。薄葬令では、身分に応じて墳墓の規模などを定められており、これにより大きな古墳の墓はつくられなくなったのです。
平安時代に入ると、仏教思想が貴族を中心に広まり始めます。お寺や塔の建立が盛んになり、お墓にも塔を建てる風習が生まれたとされています。
さらに鎌倉時代に入ると一般庶民にも仏教が浸透していき、埋葬方法も従来の土葬と火葬の両方が存在していました。
ただし、墓はまだ権力者や裕福な家しかつくれませんでした。一般庶民の場合、火葬されるとその遺骨はお棺に入れて土中に埋められましたが、その上には特に墓石といったしるしになるものが置かれることはなかったそうです。
「現代のお墓」の原型ができたのは江戸時代
〈江戸時代に「現代の墓」の原型が〉
日本においてお墓が一般庶民にも建てられるようになったのは、江戸時代の中期だといわれています。武士のお墓には板塔婆(いたとうば)や石塔婆(いしとうば)などを建てるようになり、それが庶民にも広がって、卒塔婆(そとうば)や墓石などを、お墓の上に設置することが一般的になりました。これが現代のお墓の原型だといってよいでしょう。
江戸時代になるとはっきりした理由は分からないものの、火葬は廃れて土葬が主体になります。土葬に戻ったのは、仏教による輪廻思想の影響があるとも、火葬の煙や臭いが問題になったともいわれています。お墓は遺体を死に装束で棺桶に納め、土中に埋葬し、その上に土を盛り上げた土饅頭(どまんじゅう)にするようになりました。そこに、武士のお墓の場合は板塔婆や石塔婆が建てられるようになり、次第にそれが庶民にも広まって、現在に近い形の卒塔婆や墓石をお墓の上に設けるようになったとされています。この頃に、ほぼ今のお墓の形式が築かれたといっていいでしょう。
〈家と墓を結び付けた「寺請制度」〉
江戸時代の徳川幕府は、国民統制政策の一環として、すべての国民はどこかの寺の檀家にならなければならないという、寺請制度を設けていました。キリシタンではないことを証明させるため、ともいわれていますが、同時に寺請制度により、住居や職業などの住民情報を寺に集約し管理する機能を寺が担うようになったといわれています。今でいう自治体の役所のような位置づけです。
これにより、お墓も、寺院の管理下におかれました。今のような自治体や民間の霊園などは許されなかったというわけです。
お墓の形式も寺請制度により変化しました。江戸時代の初期まで、お墓は実は「1人1基」が一般的でした。しかし寺請制度によって墓地は寺の持つ土地のみとなり、自由に設けることができなくなったので、埋葬する土地が限られるようになったことを受け、お墓は家族や一族単位になったのです。そして現代のお墓のように、地下に納骨室(カロート)を設け、その上に墓石を建てる形が普及したのです。
〈寺請制度の廃止により公共の墓地が造営〉
このようにお墓の原型をつくったといえる江戸時代の寺請制度ですが、明治維新で徳川幕府から明治政府に政権が移るとともに廃止されます。明治政府が奉じた天皇は神の子孫である、という考えによるものです。
この寺請制度の廃止によって、国民はどの宗教の管理する墓地にも、あるいは宗教と関係ない団体が運営する墓地にも埋葬されることが可能になりました。明治時代になってから公共の墓地として青山墓地や天王寺墓地が造られ、宗教にとらわれない墓地も造営されるようになりました。
明治時代以降、埋葬に場所を取る土葬に代わり、場所を取らない火葬が一般化してきました。
大正時代には各自治体が火葬場を設け、地方でも火葬が一般的になります。ただし、地方では土葬も残り、昭和初期の段階でも、火葬と土葬はほぼ半々の割合でした。
現代のお墓のあり方を規定しているのは1948年に制定された「墓地、埋葬等に関する法律」略して「墓地埋葬法」です。現代において亡くなった人を埋葬する時や、お墓を移す時には、自治体への届け出が必要ですが、これらはすべて墓地埋葬法で定められていることです。
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