人生を棒に振る決断
受話器を置き、私の気持ちは一気に暗くなった。
横で電話を聞いていたスタッフが聞く。
「見つからないんですか?」
「ダメみたいだな。ったく、どうしようもない男だよ」私は思わず愚痴をこぼした。
「海外に逃げたんでしょうかね」
「そうかもなあ。だとしたら、もう帰ってくることはないだろう」
「そうですね。戻ってきたら税金が待っていますもんね」
日本に戻るためには入国審査を通らなければならず、飛行機に乗る人の名前は入国管理局と税関が把握している。そのため、未納の相続税を納める覚悟が決まらない限り、日本に戻ることはできない。
「いくらかお金を手にしたからといって、見ず知らずの土地で生きていくのは大変ですよね」スタッフが言う。
「そうだなあ。兄貴はまだ60歳手前のようだから、数千万あっても余生を送るには足りないだろう。向こうにいたんじゃあ年金ももらえない。働き口も簡単には見つからないだろうし」
「一緒に逃げた女の人が頼りということですね」
「そういうことになるな。つまり、その女性にふられたら万事休すというわけだ」
「自業自得ですね」スタッフが呆れたように言った。
「そうだな」
私はタクシーさんの兄のことを憂いた。たかだか数百万円の税金をごまかすために、これから先の人生を棒にふったと思ったからだ。
お金の大切さがわかっていない
それから1カ月後、私はタクシーさんと再び会った。会社の決算に伴う税務処理をするためだ。
会社は今期も順調だった。しかし、兄は依然として行方がわからず、タクシーさんも半ば諦めているようだった。「なんでこんなことになったのか──」タクシーさんが呟きました。その声は、怒っているようにも聞こえ、哀れんでいるようにも聞こえた。兄弟だからこそ感じる複雑な思いがあるのだろうと私は思った。
タクシーさんが帰った後、私はしばらくタクシーさんの兄について考え、親の接し方に原因があったのだろうと思った。
タクシーさん兄弟の親は、苦労して資産をつくった。自営業で成功するのは決して簡単ではない。朝から晩まで働いたそうだし、家族や従業員のことを気にかけ、体力的にも精神的にも大きな負担を抱えたはずだ。
しかし、タクシーさんの親は、そういった苦労について話さなかった。話そうと思ったのかもしれないが、忙しすぎて話す時間がなかった。それだけでなく、兄を過保護に育て、欲しいものを何でも与えた。その結果、兄はお金の大切さや稼ぐことの尊さを学ぶことができなかったのだろうと思った。
対極的なのがタクシーさんだ。
タクシーさんは兄と同じ家に育ったわけだが、甘やかされていない。兄ばかりが贔屓されることを不平等だと感じたこともあっただろう。しかし、それでも負けなかった。自分で稼ぎ、自分の力で欲しいものを摑み取る方法を考えた。苦労もあったはずだろうが、苦労したからこそ、お金のありがたみや稼ぐことの価値がわかった。
そう考えると、家が貧乏か金持ちかはあまり大きな問題ではない。同じ家庭環境であっても、子どもそれぞれにどう接するかによって、タクシーさんとタクシーさんの兄のように大きな違いが生まれるものなのだ。
タクシーさんの兄についてもう1つ残念に思うのは、納税の大切さがわかっていなかったことだ。
相続税に限らずだが、税金は何かと嫌われている。税金を「納める」ことを「取られる」と表現する人が多いことからも、いかに税金が嫌われているかわかる。
税金は、公的サービスなどを提供するために必要なお金だ。しかし、世の中には「払いたくない」「ごまかしたい」と思う人がたくさんいる。
ニュースなどで税金の無駄遣いや、公務員や政治家の悪事が報じられるのを見て「国民の血税をなんだと思っているんだ」と憤る人もいるだろう。私も不愉快に感じる。徹底的に調べ、罰して欲しいと思う。
しかし、税金をごまかす人がいるという話と、税金の必要性は分けて考えなければならない。誰かがどこかで無駄遣いするからといって、自分が納めるべき税金をごまかしてよいということにはならないのだ。
相続でまとまったお金を手にした人や、これから手にするかもしれない人は、とくにその点に注意する必要があるだろう。というのは、相続でお金を手にすると、そのお金がつい先日まで自分の手元になかったものであるにもかかわらず、「全部自分のもの」「減らしたくない」と思ってしまうことが多いからだ。
タクシーさんの兄も、おそらくそう考えたのだろう。だから「逃げてしまおう」と考えた。逃げるのは簡単だ。しかし、逃げ切るのは至難の技である。
税理士の仕事をしていると、脱税しようとして人生がめちゃくちゃになった人の話をよく耳にする。きちんと納税すれば、相続した資産を堂々と使い、豊かに暮らせたはずの人が、つまらない欲を出して人生を台無しにしている。
タクシーさんの兄もきっと安易に逃げたことを後悔しているに違いない。
「日本に帰りたい」
「下手なことするんじゃなかった」
遠い空の下で反省しても、もう取り返しがつかないのだ。
髙野眞弓(たかのまゆみ)
税理士法人アイエスティーパートナーズ代表社員