「少し気にしておいて」という最期の言葉
しかし、Nさんはそんな長男とどうも気が合わない様子です。そしてさらにお嫁さんとは、まったく気が合わないと言っています。入居当時から彼女のことをよく知る介護職員によると、どうやら長男がお嫁さんを会社で働かせないで、自由にさせているところが気に入らないのではと言います。亡くなったご主人と二人三脚で働いてきて、ご主人が亡くなり、長男に会社を継がせた後も、相談役として毎日朝から夕方まで会社で仕事をしていました。
Nさんに言わせると、女房が旦那の仕事を手伝うのは当たり前、夫婦が力を合わせて一所懸命仕事をすることを望んでいました。さらに、彼女が老人ホームに入居した理由の一つに、長男や長男の嫁には、面倒を見られたくないという理由があったと聞きます。本人も、自分のことは自分でやるのが当たり前、人の手助けは借りない、というのが信念です。
よくこんな場面を目撃しました。ホーム内で、認知症の入居者が意味もなく職員に対して「お願いします」「お願いします」と叫んでいることがあります。Nさんはその叫んでいる入居者のところに行き、「あなたは、職員さんに何をお願いしたいの? 何をしてほしいの?」と真剣に聞きます。意表を突かれた認知症入居者が「ベッドに寝かせてほしいのよ」などと言おうものなら、これまた真剣に「あなたは、一人でベッドで寝ることはできないの? いい大人なんだからそんなことで職員の手を煩わせるようなことをしてはダメ。一人で、できるでしょう。甘えていないで一人で寝なさい」と、ピシャリと言います。
さらに、聞き分けが悪いとベッドまで一緒に連れていき、寝かしつけてしまいます。老人ホームでは、認知症の入居者は、けっして珍しくはなく、その対応は、ある意味不毛に近いケースが多いのですが、何度も何度も、真剣に正しい回答を認知症入居者に向けて発信し続けていきます。
ある日のこと、ナースコールで呼ばれ、私が居室に伺うと、自分で気管の吸引掃除をしているところでした。作業をしながらの話なので、空気が気管から漏もれて上手く声が出ていません。しばらく、それを見守りながら、とりとめのないやり取りをして作業が終わるのを待ちました。「今日の夜勤者は誰なの?」と聞かれたので答えると、Nさんは「今日の私は少しいつもと違うのよ。様子が変なの。二人に今日は、少し気にしておいてほしいと伝えてくれる」と奇妙なことを言います。
私が「縁起でもないことを言うのはやめてください。いつもと同じにしか見えませんよ」と返しても反応がありません。私は、その足で看護師のところに行き、話の内容を伝えると、看護師は「後で、少し話をしてみるわ」と言ってNさんの居室のほうへ向かいました。