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「変な人が、慣れ慣れしく、私のことをお母さんと…」
ある日の午後、天気が良いので布団を干したいというリクエストに応えるために、私が居室を訪問した時の出来事です。いつものように人形は、ベッドの上に布団を掛けて寝かされています。布団を干すには、人形をどかさなければなりません。私は先輩職員の助言を思い出し、目の前にある人形は、人形ではなく人間の赤ちゃんである、と自分に言い聞かせ、大切に両手で赤ちゃんを抱き上げて彼女に渡そうとしました。
普通、このような時、人間の赤ちゃんの場合は、「可愛い赤ちゃんですね」。とか「よく寝ていますね」とかの声掛けをするものです。わたしも、「気持ちよさそうに良く寝ていますね」と言いながら彼女に手渡すと、意外な反応が返ってきました。「あなた、頭がおかしいの？ これは人形よ。人間ではないのよ。人形に気持ちよさそうに寝ているも何もないじゃない。おかしなことを言う人ねエ」。そう言って軽蔑とも同情ともとれる表情で私を見つめて苦笑いをしています。
私は、釈然としないまま、その場を後にしました。そして、この話を先輩職員に伝えると、先輩職員からは「Aさんは、たまに正気に戻ることがあるの。普段はあっちの世界で生きている人なんだけど、何らかの条件が重なると、こっちの世界に戻ってくるのよ。本当に不思議な人よね」と教えられました。
専門医から認知症と診断され、認知症の薬を服用しているAさん。しかし、一見しただけでは、介護が必要な高齢者には見えません。世間話から少し難しい政治経済の話まで、85歳の女性高齢者としてのレベルは維持していて、まったく違和感もありません。ただ一つ、人形を自分の子供だと思い込んでいる行動以外は……。
老人ホームには認知症の高齢者がたくさんいますが、一口に認知症といっても千差万別。さまざまな状態や場面があるように思えます。Aさんのケースは、この人形の件以外に大きな問題行動はなく、生活も自立しています。さらに、一日のうちに数回、人形を人形として冷静に理解できる時間もあります。介護職員はよく「まだらボケ」という言い方をしますが、彼女の場合、しっかりしている時とぼけている時とが交互に来る「まだらボケ」のケースとも少し様子が違うようです。ホームの看護師によると、認知症というよりも精神疾患に近いのでは？ということのようですが、娘さんの方針もあり、具体的に周囲に迷惑をかけていないのであれば、この件は不問にしておいてほしいということで専門医の診察を受けてはいないようです。
数カ月後、居室から娘さんの大きな声が聞こえてきます。「お母さん。私よ、私。あなたの娘よ。忘れちゃったの？」。ほどなく、人形を抱きかかえたAさんが職員の元に駆け寄り、「変な人が、慣れ慣れしく、私のことをお母さんと言ってくるのよ。私の娘はこの子一人なのに」と言って助けを求めています。そしてその後ろから、娘さんが、呆れた表情で、「もう実の娘のこともわからないくらいに頭が壊れているのね」とつぶやきながら肩を落として立っている姿が、今も目に焼きついています。
小嶋 勝利
株式会社ASFON TRUST NETWORK 常務取締役
