業界激震「山一證券の破綻」当時、現場では…
主任になると通常、新規開拓はあまりやらなくなるのですが、顧客をつくらなければノルマをこなせる状況ではなく、転勤早々必死になって電話による新規開拓を続けていました。肩書きは変われど、業務内容にほとんど違いはなかったのです。
転勤した直後の1997年、証券業界に一つの激震が走りました。山一證券の破綻です。山一證券は「法人の山一」と呼ばれるほど法人営業が強く、大口の法人に対し一任勘定(顧客の同意不要、証券会社に任せて行う取引で、現在では原則禁止とされています)で運用していました。
利回り保証をした結果、損失を出した分の補償を迫られたことが、破綻への序曲となり山一證券は負債の隠蔽に走りました。ペーパーカンパニーや海外子会社に補填した損失を付け替え、簿外処理したのです。これはまさしく粉飾決算の手法で、俗に「飛ばし」と呼ばれています。
破綻の最後のひと押しは、米格付け会社のムーディーズが山一證券の格付けを「投資適格」から「投資不適格」に格下げしたことです。資金調達の道が閉ざされ、一気に破綻への下り坂を転げ落ちることとなりました。
この格付けという客観的な評価が、企業や債券の信用度を大きく左右します。
ちなみに日本国債の格付けは1992年にトリプルAだったものが2001年2月にダブルAプラスとなり、さらに同年11月にはダブルA、2002年にはダブルAマイナスへ落ちました。2007年にはダブルAにいったん格上げされたものの、2011年にまたダブルAマイナスへと落ち、2015年にはいよいよAプラスとなり、徐々に信用度が落ちていることが分かります。
さて、山一證券の破綻後、日本の証券会社の信用度は一気に落ちていました。大和証券も格付けはギリギリの水準で、「投資適格」のトリプルBマイナス。このすぐ下のダブルBになると「投機的格付け」となり、投資不適格のレッテルが張られてしまいます。公共性の高い機関はこの社債を持つことができなくなり、大和証券の台所事情は壊滅的になってしまうのです。
一気に信用不安の波が押し寄せました。会うお客さま全員に「おたくのところは大丈夫なの?」と心配されました。積極的に金融商品を買ってくれていたお客さまも財布の紐をギュッと固く絞めてしまい、営業どころではなくなってしまったのです。