証券会社は「ノルマ至上主義」~大和証券の実態
■明暗を分けた留年
父の影響を受け、小さい頃から株式投資に興味を持ち、株オタクとしての道を順調に歩んでいきました。父のそろえた会社四季報をすみずみまで読み込むのが好きで、すべての上場企業でどれだけの従業員が働いているのか、計算機を使って意味もなく足し合わせたこともあります。
大学時代、父からお金を借り、いよいよ私の株式投資人生が始まりました。生まれて初めて買ったのは化学メーカーのクレハとカネカという会社の株でした。
本州製紙という会社の株も持っていたのですが、大手仕手グループのターゲットにされて、1000円ほどだった株価が5000円ほどまで上がり、偶然の産物ですが大きく儲けることができました。ちなみにその仕手グループは「誠備グループ」と呼ばれていて、加藤あきらが率いていました。1989年当時に暴力団の稲川会会長であった石井進と組み、東急電鉄などの株価をつり上げていました。
これらの経験もあり、私はもっともっと株式投資の世界に浸っていたいと思うようになり、気づけば証券会社への就職を希望していました。当時の証券業界は、野村證券、日興証券、大和証券、そして山一證券の大手四大証券会社を筆頭に、証券会社が各所に点在していました。
私は青山学院大学に通っていたのですが、大手証券会社には国立早慶卒でないと入るのは厳しいのではないかと思い、準大手証券会社を希望し、太平洋証券に内定をもらいました。ところが、単位不足で留年してしまい、入社が叶わなくなってしまったのです。ちょうど卒業旅行(私は卒業できませんでしたが……)でシンガポールへ行く直前で、成田空港から太平洋証券の人事部に「卒業できなかった」と伝えたことを覚えています。
その翌年の1992年、再度の就職活動を行い、今度はなんと四大証券の一角である大和証券へ入ることができました。準大手に入るはずが、私の不手際で招いた留年によって大手へ。一言でいえば僥倖、数奇な運命です。
ちなみに当初入社するはずだった太平洋証券は山一證券の系列会社でした。ご存知のとおり、山一證券はその後破綻しています。太平洋証券ものちにユニバーサル証券や第一証券など準大手と合併し、三菱UFJ証券となりました。もし学生当時留年せず太平洋証券に入っていたら、これら一連の渦中に巻き込まれることになり、たとえ三菱UFJ証券に残れたとしても、肩身の狭い思いをしたことでしょう。