このような日明の良好な関係は、この後、豊臣秀吉が明の征服を企てた朝鮮出兵によって打ち砕かれました。
江戸時代になると秀吉に代わって政権を担った徳川家康により中国と朝鮮との関係は改善しますが、対外関係を管理したい幕府による「鎖国」政策によって、これら二国との関係も限定されてしまいます。
中国人は長崎の唐人屋敷での滞在と貿易のみが認められました。
朝鮮とは、朝鮮通信使が将軍の代替わり時を中心に12回来日しました。江戸までの沿道の大名は物珍しい外国からの使節を贅を尽くして歓待したといわれます。朝鮮王朝では肉食が盛んであったため、当時日本ではあまり食さなかった肉を沿道では歓待のため提供したといわれています(朝鮮通信史資料館御馳走一番館内の資料による)。
このような平和な関係を打ち破ったのが、明治以降の日本の帝国主義的な侵略でした。
日中韓交流の歴史で重要な、「漢字」という共通の文字
古代以来、日中韓の歴史を見る際に忘れてはいけないのは、漢字という共通の文字です。漢字で書かれた漢文は東アジアの有識者にとって重要な教養でした。
中国では各地に方言があり、方言で話をすると相互が通じないのです。それゆえに、書き言葉で通じ合えるように統一することが必要でした。そのために生みだされたのが漢文です。
この漢文は、周辺国である朝鮮半島と日本に伝わりました。中国由来の知識や文化を先進的とみなしてきた日本においては、長きにわたり漢文は政府高官に必須の知識となったのです。
朝鮮半島でも漢文は朝鮮王朝の時代までは政府内の言葉として使われていました。当時の東アジアにおける漢文は、欧州におけるラテン語と似た存在だったと考えられます。
一方、欧州に目を向けると、カトリック教会では長くラテン語が使われていました。
宗教改革の際に、聖書をラテン語でなく自国語に訳すことがプロテスタント側の一つの要求事項となりました。
また、ルネサンス期を経た17世紀においても学術的な書籍はラテン語で書かれていました。例えば、ニュートンの『プリンキピア』はラテン語です。欧州において学術的な書籍・論文を自国語で発表するようになるのは、18世紀。哲学者のカントが母語であるドイツ語で『純粋理性批判』を執筆するのを待たねばなりませんでした。
私が欧州におけるラテン語の重要性を実感したのは、通っていたケンブリッジ大学の卒業式のことです。伝統が重視される卒業式では、卒業証書授与の際にラテン語が使われたからです。