百済とヤマト政権は、かなり緊密な関係にあった
朝鮮半島を経由して日本に伝わったものの中で、その後の日本に大きな影響を与えたものと言えば何と言っても仏教です。
日本に仏教を伝えたのは、当時の百済(くだら)の国王の使節でした。百済と日本のヤマト政権はかなり緊密な関係にあり、多くの渡来人が日本にやってきました。以前は帰化人という言葉も使いましたが、当時は現在のような国籍は明確ではなく帰化という概念もなかったので、渡来人という表現がより適切と考えられています。
そもそも国民国家を前提とする国籍という概念は近代国家になってからのもの。それ以前にも、言葉や民族が違うということはお互い認識していたでしょうし、外国という概念はありました。しかし、国籍といった枠で縛る考えは現在よりも希薄でした。ある意味、現在以上に自由に行き来をしていたグローバルな時代でした。
7世紀末から8世紀初頭に築造された奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画は高句麗(こうくり)の影響が指摘されています。この壁画を見ると、日本が古代から中国や朝鮮半島の影響を受けてきたことがわかります。例えば、女子の像の服装は高句麗との類似性があると言われています。この壁画の発見は日本と大陸の文化交流の深さをより強く示唆するものでした。
渡来人は、中国系もたくさんいたので朝鮮半島系ばかりではありません。中には、ヤマト政権の中枢で活躍した人もいました。
平安京を開闢(かいびゃく)したことで教科書に登場する桓武(かんむ)天皇の母親である高野新笠(たかののにいがさ)は、『続(しょく)日本紀』によると百済系の渡来人の出身です。渡来人の活躍によって朝廷内部における地位が高まり、天皇を生む位にまで達したのです。
当時の朝廷では、天皇になるためには母親の家柄が非常に重視されていたので、本来ならば、当時、家格が高いとはいえない百済系の渡来人である高野新笠を母とする桓武天皇が即位する可能性は低かったのです。しかしながら、桓武天皇が即位したことにより、その後百済系の渡来人の家格に上昇をもたらしたと考えられます。