徳川家康は世俗から「棚ぼた的天下」と揶揄された
◆徳川家康が実践した戦国一の食養生
徳川家康は五大老の一人として、幼い秀頼の後見人に指名されていましたが、秀吉が亡くなると次第に勢力を拡大し、時代は再び不穏な空気に包まれます。
1600年9月、天下を二分する関ヶ原の合戦に勝利した家康は、1603年、江戸に新しい幕府を開きました。
それから約250年後のある日のこと。幕末の江戸の町に奇妙な狂歌が出回りました。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」
信長と秀吉が苦労して天下を平定したのに、最後においしいところをいただいたのが家康だったという意味で、誰が作ったかはわかっていません。
[図表1]は、この狂歌をもとに描かれた「道外武者御代(どうけむしゃみよ)の若餅」という浮世絵です。餅つきをしているのは信長、秀吉、家康、明智光秀の4人の武将で、「道外」は道化師の「道化」と同じく、こっけいなことです。
着物に描かれた紋や陣羽織などから、当時の人はすぐに誰だかわかったようです。信長と光秀が手前で一緒に餅をついているのは面白いですね。左上で餅を一生懸命こねる秀吉が猿のようで愛嬌があるのに対し、右上の家康は餅を手に、にんまり笑っています。
これを見ると、いかにも腹黒いたぬきおやじが棚ぼたで天下を手に入れた印象を受けますが、実際には家康の人生は苦労の連続でした。この狂歌は当時の江戸幕府を批判したものと考えられることから、そのまま受け取ったら家康が気の毒と思われます。
信長と秀吉は尾張、家康は三河の生まれで、いずれも現在の愛知県出身です。三人は家臣や親族を全国に配置したため、江戸時代の大名家の5〜7割はこの地域にゆかりがあるといわれています。前田利家、柴田勝家、本多忠勝、加藤清正、池田輝政、福島正則、山内一豊など、数え上げればきりがありません。漫画になって人気を集めた前田慶次をはじめ、名だたる武将の多くがこの地域の生まれでした。
出身地が同じとなれば、おそらく武将たちはよく似たものを食べていたでしょう。そのなかで、健康で長生きすることこそ天下取りの鍵と考え、食生活を含む生活習慣に細心の注意を払ったのが徳川家康です。
1100年ごろに大陸で編纂され、朝鮮出兵の際に宇喜多秀家が持ち帰った『和剤局方』という薬の処方集があります。家康はこの本をつねに持ち歩き、立派な道具をそろえて薬の調合まで行っていました。
ここで、江戸幕府がまとめた徳川家の記録『徳川実紀』に記載された家康の健康法を見てみましょう。
◆白米だと力が出ない?
家康の普段の食事は麦ご飯と味噌汁におかずが一品か二品で、イワシの丸干しと、同じくイワシの煮付けをよく食べていました。この習慣は、江戸に移り、征夷大将軍になっても変わらなかったそうです。
征夷大将軍とは、もとをたどると奈良時代に東北地方の蝦夷(えみし)を討つために送られた軍の総司令官のことで、坂上田村麻呂が有名です。それが鎌倉時代に武家政権の長の称号になり、足利氏、徳川氏が引き継ぎました。
征夷大将軍の屋敷が「幕府」です。徳川氏でいえば江戸城にあたりますが、歴史学では武家政権そのものをさして幕府といっています。
庶民の魚だったイワシを家康が率先して食べたのは、貧しい兵をいたわり、地位のある家臣らの手本になる気持ちもあったでしょうが、この時代の武将に広く見られるように健康効果を考えてのことと思われます。
秀吉に長年仕えた加藤清正は身長180センチを超える巨漢で、鬼将軍の異名を取っていました。当時、黒米と呼ばれた玄米を好んで食べ、家訓である『掟書』に「食は黒米たるべし(玄米を食べよ)」とわざわざ書くほどでした。
また、加賀百万石の基礎を築き、身長が同じく180センチ以上あった前田利家も、妻まつとともに生涯玄米を食べたと伝えられています。体の大きな武将は、白米だと食べても力が出ないことを実感していたのかもしれません。
麦ご飯も玄米も、白米とくらべてビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富です。[図表2]からわかるように、たとえば玄米の食物繊維は白米の6倍にのぼります。しかし、この違いが体にどれほどの影響を与えるかは、現代の私たちにはイメージしにくいかもしれません。食物繊維が多いといっても、茶碗一杯に入っている量なんてしれているだろう。そう考えてしまいがちです。
しかし戦国時代の武士は、米を一日に5合から、多いときは10合近く食べていました。ご飯1合を米150グラムとして計算すると、玄米を5合食べれば食物繊維を22.5グラム摂取できます。現代の若年〜中年男性1人一日あたりの食物繊維の摂取基準20グラムなど余裕しゃくしゃくです。ところが白米だと5合食べても3.8グラムにしかなりません。すべてがこの調子で、摂取できるビタミン、ミネラルの量も段違いでした。
また、当時はつぶした押し麦ではなく、麦の粒を丸ごと使っていました。相当しっかり噛まないと飲み込むのも一苦労だったそうです。これも良いことで、よく噛むと胃腸の機能が高まりますし、副交感神経を刺激するのでリラックスできます。満腹中枢に働きかける作用もあるため、満腹感もしっかり得られます。
日々の食事は、家康が心と体のエネルギーをたくわえるための貴重なひとときだったといえるでしょう。
尾張、三河の武将たちが「八丁味噌」を好んだ理由
◆豆味噌で大豆を丸ごといただく
尾張、三河の武将たちにとっては、味噌といえば豆味噌、いわゆる八丁味噌でした。黒に近い焦げ茶色の味噌で、これを味噌汁はもちろん、味噌煮、味噌漬けなど調味料としても使い、日常的に食べていました。八丁味噌の「八丁」は、現在の岡崎市八帖(はっちょう)町、以前の八丁村に由来します。
豆味噌が他の味噌と根本的に違うのは、大豆と塩だけで造ることです。たとえば、信玄の信州味噌や政宗の仙台味噌は大豆、塩、そして米を使うことから米味噌と呼ばれています。この他に九州と、中国、四国の一部では、大豆、塩に加えて麦を使う麦味噌が食べられています。
味噌のルーツは醤(ひしお)で、当初の原料は大豆と塩でした。研究を重ねるなかで、大豆の発酵を早めるために米麹や麦麹を加えたり、大豆を蒸す代わりにゆでたりするなどの工夫がなされ、さまざまな味噌が造られました。
それにもかかわらず、尾張、三河の周辺だけが一貫して古い製法を守ってきたのは、この地域特有の蒸し暑い夏にも腐敗せず、風味が保たれるからといわれています。
コクがあり、見た目が黒々としているので、塩辛いのではないかと心配する人がいますが、独特の風味は大豆の蛋白質が発酵してできた、うま味成分によるものです。穀物を使っていないぶん、炭水化物が少ない代わりに大豆由来の成分が豊富で、カルシウムが多く、血圧を下げる働きのあるカリウムが非常に多いのも特徴です。
これを聞いて、「それならウチも豆味噌にしようかな」と思った人がいるかもしれませんが、豆味噌にこだわる必要はありません。安土桃山時代の医師、曲直瀬道三の言葉を借りれば、味噌も人の体も、その土地の気候風土のなかで作られます。その意味では、生まれ育った土地の味噌こそ、体にもっとも合うといえるでしょう。
【第1回】縄をかじって塩分補給…武田信玄が「味噌」に命をかけた実情
【第2回】酒も飲まない?傍若無人な織田信長が意外と健康志向だったワケ
【第3回】豊臣秀吉が「花見」の祖?現代まで続く、安土桃山時代の食文化
奥田 昌子
医師