医学書を読みふけっていた健康オタク、徳川家康
◆季節外れのもの、冷たいものは食べない
徳川家康は現代でいう健康オタクで、当時最先端の医学書、薬学書を読みふけり、高名な医師を招いては議論をかわしました。そんな家康に大きな影響を与えたのが天海僧正です。
天海は現在の福島県の生まれで、家康に重んじられ、軍師の一人として関ヶ原の合戦に同行したとか、家康が幕府を開く際に江戸が最適だと助言したという話もあります。謎に包まれた怪僧で、107歳で亡くなったと伝えられています。
天海の故郷とされる会津は当時から納豆作りが盛んでした。煮豆を温かいうちに稲わらで巻いて雪に埋めると余熱が続き、じんわり発酵させることができます。
この時代は納豆を味噌汁に入れて食べるのが普通で、天海も納豆汁を好み、家康が体調を崩したときに食べさせたという記録があります。大豆と大豆の組み合わせですから栄養たっぷりです。
天海が長生きの秘訣として家康にすすめたのが粗食でした。粗食といっても粗末な食事ではなく、飾らない食事のことです。地元で手に入れた新鮮な旬の食材を使い、あまり手を加えずに食べるよう助言したのです。家康は、この教えをかたくななまでに守りました。
旧暦の11月、今の暦だと冬のただなかに、織田信長から立派な桃が送られてきたことがありました。桃の本来の旬は初夏です。家臣らは驚いて、織田殿はすごい、こんな時期にどうやって桃を手に入れたんだろう、とどよめきましたが、家康は手をつけようとしません。自分は食べるわけにはいかないと言って、桃を家臣に与えてしまいました。
珍しいもの好きな信長に悪気はなかったでしょう。けれども、季節外れの食品は体に良くないと考えていたのは天海と家康だけではありませんでした。
武田信玄は桃の話を伝え聞き、「家康は大望があるから、養生を第一に考えたのだろう」と語ったといわれています。また、毛利元就の孫、毛利輝元から豊臣秀吉に贈られた、同じく季節外れの桃を石田三成が受け取らず、毛利家の使者に持ち帰らせたという逸話もあります。
野菜、果物に含まれるビタミン、ミネラルの量はたいてい旬の時期にもっとも多く、季節外れになると大きく減ってしまいます。鮮度も重要で、収穫してから一日たつだけで栄養素が急速に失われます。山海の美味を遠くから取り寄せて食べていた平安貴族の食事がいかに不健康だったかわかりますね。
家康は腐敗にも用心しました。武士が戦地で食べる陣中食に干し飯(いい)があります。炊いたお米を数日間天日干しして作る保存食で、湯に浸して戻すと食べられます。これを家康は焼いて食べました。いたんでいるといけないと考えたのでしょう。さすが、やることが徹底しています。
◆新鮮な鳥の肉を食べていた
家康は鷹狩りが大好きでした。鷹狩りとは、その名のとおり鷹を使う狩りのことで、鶴、ウズラ、キジ、鴨、ウサギなどを捕らえます。
鷹狩りの歴史は古く、『日本書紀』によると、古墳時代初めの仁徳天皇の時代に大陸から鷹狩りの技術が伝えられ、朝廷に鷹を飼う専門の部署が作られています。平安時代以降は武家が盛んに行うようになりました。
鎌倉時代に源頼朝が富士の裾野で行った有名な巻狩りは、四方から獲物を取り囲み、追いつめて捕らえる方法です。そのため鷹狩りとは異なりますが、どちらも馬に乗って山野を駆けめぐる点は同じです。武士にとって狩りは軍事教練の場でもありました。
家康は鷹狩りが健康維持に役立つと考えていたようで、生涯に1000回以上も鷹狩りをもよおしています。狩りで捕らえた鳥は焼き鳥となって家康の食膳を飾りました。
肉は血管を丈夫にしますし、筋力がつきます。現代のように食べ過ぎるのは問題ですが、ある程度は必要です。しかも家康が食べていたのは肉のなかでも脂肪が少なく、蛋白質が豊富な鳥の肉ですから、より健康的でした。
家康は亡くなる数ヵ月前まで鷹狩りを楽しみ、73歳で生涯を閉じました。長らく死因とされてきたのが鯛の天ぷらによる食中毒です。天ぷらは南蛮から伝わった新しい料理で、日ごろ健康第一の家康も、物珍しさから、つい食べ過ぎてしまったのではないかというのです。
しかし、胃か食道、もしくは他の消化器にがんがあったのではないかという指摘もあり、文献や記録を見る限りでは、こちらの説のほうが納得できる気がします。内臓のがんは外から見えないため病名の見当がつかず、家康は自分の病気を寄生虫感染と考えていたようです。消化器のがんを診断できるようになるのは明治時代になってからです。
「病気になったのは、ぜいたくをしているからだ」
◆質実剛健な時代の終わり
家康に仕えた大久保彦左衛門といえば、「天下のご意見番」として映画やドラマでおなじみです。三河出身の彦左衛門は家康とともに苦難を乗り越え、江戸幕府成立に力を尽くしました。太平の世にあっても麦の粥、焼いたイワシ、野菜がたっぷり入った豆味噌の味噌汁という三河以来の質素な食事をつらぬき、79歳まで生きた頑固者です。
かつての戦友で、大名になった井伊直政が病気になったと聞いた彦左衛門は、さっそく見舞いに行くと小さな鰹節を差し出しました。驚く直政に彦左衛門はこう語りかけたそうです。
「病気になったのは苦しい時代を忘れ、ぜいたくをしているからだ。私は戦の非常食である鰹節をつねに持ち歩いている。ぜいたくは慎むべきだ」
しかし、家康の死去にともない、古い時代は終わりを告げようとしていました。彦左衛門の嘆きをよそに、武士の食生活は大きく変わり始めていたのです。
他の戦国武将より年下だった伊達政宗はこのころも健在で、幕府を支え、家康の孫である三代将軍家光を補佐しました。若いころは簡素な戦国式の食事をしていた政宗ですが、天下が定まると大変な食通になり、みずから包丁をふるいました。
目をさますと2時間かけて朝食の献立を考えます。一日二食なので朝食の時間が遅く、時間はたっぷりありました。伊達家の資料を伝える伊達家伯記念會によると、ある朝のメニューがこちら。
【焼いた赤貝、ふくさ汁、ご飯、ヒバリの照り焼き、鮭のなれ寿司、大根の味噌漬け、コノワタ、栗と里芋】
ヒバリは鳥のヒバリで、ふくさ汁は味噌汁です。ここでは仙台味噌と京都の合わせ味噌を使うよう指示されています。具はキジの肉と豆腐、青菜でした。コノワタはナマコの腸で、これを肴に酒を飲み、栗と里芋は和菓子にして食べたのかもしれません。
将軍家光を仙台藩の江戸屋敷に招いた際には、全国各地の美味、珍味を取りそろえ、南蛮渡来の白砂糖で作った菓子まで添えた豪華な献立をすべて考案しました。政宗自身が味見して、お膳を運んだと伝えられています。
そんなころ、政宗に長年付き従った重臣が、豆ご飯、イワシの塩焼き、里芋と大根の味噌汁という、政宗が若いころ好んで食べた食事をわざわざ作ってもてなしたことがありました。政宗は食べはしたものの、城に帰ってから他の家臣に「粗末な食事が出てきた」と語ったそうです。
口がおごったというよりは食べる目的が変わったということでしょう。食べて体を作る時代から、食べて楽しむ時代、食を文化とする時代になったのです。しかし、この変化が、それまで少なかった病気の急激な増加を招くことになりました。
奥田 昌子
医師