肉食が禁止されたことで、大豆の栽培が盛んになった
味噌と醤油は安土桃山時代にほぼ完成しました。その共通の祖先が醤(ひしお)で、701年に制定された大宝律令には、すでに宮中で大豆を発酵させて醤を製造していたことが記載されています。
鎌倉時代以降、表向きとはいえ肉食が禁止されたことで、大豆の栽培がそれまで以上に盛んになりました。蛋白質を大豆から摂取するためです。「畑の肉」といわれるとおり、大豆は蛋白質が豊富で、全体の約35パーセントが蛋白質です。
『喫茶養生記』の栄西と、『正法眼蔵』で知られる道元が鎌倉時代初期に大陸から伝えた禅宗は、武家を中心に室町時代に盛んとなり、室町文化に強い影響を与えました。野菜を中心とする精進料理の発展に大きく貢献したのもその一つです。
大豆は貴重な栄養源であるだけでなく、加工すると弾力が出て食べごたえが生まれるため精進料理に欠かせません。大豆を原料とする味噌、醤油、糸引き納豆の開発が日本で独自に進み、豆腐、おから、ゆば、あげなどの大豆製品とともに浸透していきました。
精進料理では肉のほかに、葱、ニラ、ニンニクなど刺激の強い食材の利用が禁止され、調理のしかたにも細かい制約がありました。しかし、逆にそのことが、食材の下ごしらえや出汁と調味料の工夫をはじめ、調理技術の飛躍的な向上をもたらしたとされています。
魚から動物性蛋白質を、大豆と穀物から植物性蛋白質を摂取する食習慣は身分を超えて広がって、のちの日本人の健康に大きな恩恵となりました。
菜飯のおにぎりが主流になったのは安土桃山時代から
◆重箱持参で花見を楽しんだ豊臣秀吉
醤から枝分かれして、まず発展したのが味噌でした。安土桃山時代に入ると料理の味つけに使われ、味噌汁も作られます。白味噌、赤味噌、八丁味噌、仙台味噌など多彩な味噌が誕生するのは江戸時代のことです。
醤油は鎌倉時代に味噌を造る過程で容器の底にたまった液を「たまり」として利用したのが始まりとされています。こちらも安土桃山時代に製造方法が確立され、1597年に出た本のなかに醤油という文字が初めてあらわれます。
味は現代のたまりに似ており、当時は米の2、3倍もする高価な調味料でした。庶民の食卓で醤油が欠かせないものになるのは江戸時代もなかばになってからです。
調味料の充実を受けて安土桃山時代は菜飯のおにぎりが主流となり、おかずとして梅干し、味噌、胡麻、鰹節、干し魚などを戦場に持参しました。おいしそうですね。戦わないうちから休憩が待ち遠しくなってしまいそうです。
武将や公家など上流階級の人々は漆塗りの重箱に料理を詰めて、花見や茶会の場で弁当を楽しんだといわれています。一説によると、その始まりは、安土桃山時代も終わりに近づく1598年に豊臣秀吉がもよおした花見の宴でした。
1585年に関白、ついで太政大臣となった秀吉は、1590年、ついに天下統一をなしとげます。天下人となった秀吉の最後の願いは、健康で長生きし、幼い秀頼の行くすえを見届けることでした。
晩年は「割り粥」といって、臼で割った米で作る粥を好んで食べたようです。通常の粥以上に消化に良いのが特徴で、おかずは、生まれ故郷である尾張の中村から献上させた大根とゴボウでした。
その8年後、終焉が静かに近づくなか、秀吉は近親者、配下の武将とその家族をはじめ1000人近くを京都醍醐寺に招き、絢爛豪華な花見を楽しみました。この日のために早くから醍醐寺の整備を進め、あらたに700本の桜を植樹したそうです。のちの時代に制作された『醍醐花見図屏風』には、満開の桜のもとで笑顔を見せる秀吉の姿が描かれています。
このとき、今に伝わる三色団子が初めて作られたという話があります。上から順に赤、白、緑の三色の団子が串に刺さった三色団子は、諸説あるものの、赤い桜と白い雪、緑の新緑で春のおとずれを表現しています。花見の宴にふさわしい、かわいらしい和菓子です。
中年を過ぎてから「養生を心がける」…その本質は何か
◆生を完成するために養生せよ
花見から5ヵ月後の夏、秀吉はこの世を去ります。辞世は「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。人生のはかなさを詠ったもので、信長が好んだ「人間五十年」、謙信の辞世とされる「四十九年 一睡夢」を思い起こさせます。
敬虔な仏教徒であった謙信はともかく、自信家で、弱気になることを誰よりも嫌う信長や、機転が利き、どんなときでも人生を楽しんでしまうイメージで語られる秀吉が、悟りにも似た境地にいたるのは意外な気がします。
けれども、この時代の人は、誰かが目の前であっけなく死んでいくのを、おそらく日常的に目にしていました。つねに死と隣り合わせの武将となればなおさらでしょう。そして、ときに反発しながらも、仏教の教えは現代よりもはるかに身近で切実なものでした。
こういう時代背景を考えれば、誰もが無常をおぼえていてもおかしくないのかもしれません。無常は仏教用語で、「この世のすべてのものは移り変わる」という意味です。人生ははかなく、栄華にも必ず終わりがおとずれます。こういうものの考えかたを無常観といい、日本的な思考の根幹をなすものと考えられています。
日本の風景は季節ごとに美しく姿を変える一方で、自然災害が多く、人命と田畑に被害をもたらします。長い歳月をへるうちに、日本人は「この世はこういうものなのだ」と考えるようになったと思われます。
当時の人は現代人とはくらべものにならないほど無常を実感しており、たとえ天下の覇者となっても、心の底には「いつか終わりが来る」という、さびしさと覚悟があったのでしょう。
安土桃山時代の医師、曲直瀬道三の著書にこんな一節があります。ある人が道三に、「中年を過ぎてから養生を心がけて、どんな得があるのか」とたずねました。「もう先が見えているのに、いまさら養生して何になる」というのでしょう。これに対する道三の答えはこうです。
「良く死ぬためである。与えられた天寿をまっとうし、生を完成するために養生が必要なのだ」
人生がはかないからこそ、限られた時間を濃厚で価値あるものにしようではないか。そのために養生は欠かせない。道三の思想が武将たちの心をつかんだのもわかるような気がします。
【第1回】縄をかじって塩分補給…武田信玄が「味噌」に命をかけた実情
【第2回】酒も飲まない?傍若無人な織田信長が意外と健康志向だったワケ
奥田 昌子
医師