NHK大河「麒麟がくる」。初回の放送以降、高視聴率を維持している。長谷川博己氏が演じる明智光秀の活躍はもちろんのこと、織田信長役の染谷将太氏の怪演がツイッターのトレンドに上がるなど、視聴者からの支持は増す一方だ。本記事では、内科医である奥田昌子氏の書籍『日本人の病気と食の歴史』(KKベストセラーズ)より、鎌倉・安土桃山時代を生きた人々の「食文化」に焦点を当て、当時の歴史を探っていこう。

鎌倉・安土桃山時代に「風病」と呼ばれていた病

◆領民の養生をはかった武田信玄

 

鎌倉時代から安土桃山時代の間、突然倒れて半身不随になったり、言語障害があらわれたりすることを、まとめて風病と呼んでいました。その大部分が現代でいう脳梗塞と、上杉謙信が発症した脳出血でした。

 

江戸時代に入ると中風とか中気に呼び名が変わりますが、「風」「気」の字を使うのは、大陸では空気の流れにとどまらず、体に悪い影響をおよぼす目に見えないものを風、気と表現していたからです。今も使う「風邪」もそうです。中風の「中」は、「食中(あた)り」とか「中毒」と同じく、風に中(あた)るという意味です。

 

風病による後遺症には湯治が有効と考えられていました。湯治とは温泉に滞在して疲れを取り、病気や傷の治療につとめることをいい、温泉はもともと一種の医療施設でした。日本三古湯といわれる道後温泉、白浜温泉、有馬温泉をはじめ各地の温泉に、皇族や貴族らが療養したという古代からの記録が残っています。

 

室町時代になると温泉の効能や適切な利用法について理解が進み、湯治するにあたっての注意書きを掲示する温泉もあったそうです。

 

古代の風呂と同じく、鎌倉時代、室町時代の風呂も蒸し風呂でした。湯がこんこんと湧き出す天然の温泉であっても全身を湯にゆだねる例は少なく、患部に湯をかけることを湯治と表現したようです。現代のように湯につかる風呂が徐々に普及するのは江戸時代になってからです。

 

戦国大名はみずからの領地に温泉をもうけ、戦でケガをした武士を療養させたと伝えられています。とくに有名なのが謙信のライバル、武田信玄の「隠し湯」です。

 

みずからも温泉好きだった信玄は、温泉や、水温が低い鉱泉を熱心に探させました。領内の交通の整備、治山、治水にも力を入れていたことから、武士だけでなく、職人さんや労働者たちにも利用させたといわれています。

 

甲斐で行われた大事業の例に信玄堤の造営があります。川の氾濫によって田畑に大きな被害が出たのを教訓に、信玄は当時の土木技術を駆使して、20年近い歳月をかけて堤を築かせました。

 

流れに沿って巨岩を配置することで水の勢いをやわらげ、堤防の決壊を防ぐ方法です。労働者たちは温泉で汗を流し、あらたな気持ちで翌日の作業に取り組んだのでしょう。

「敵に塩を送る」のもととなった謙信のエピソード

◆味噌は塩より健康に良い

 

信玄が治める甲斐の国は海から遠く、塩を手に入れるのに苦労していました。人は塩がなければ生きていけません。しかたなく、太平洋に面する駿河と相模から塩を買っていましたが、あるとき同盟関係のこじれから塩の供給を止められてしまいました。いわゆる塩飢饉です。

 

現代なら、さしずめ石油の禁輸でしょう。[図表1]に当時の勢力図をのせました。

 

塩飢饉のころの勢力図です。信玄の領地は内陸で、塩の入手に苦労していました。また、周囲を強敵に囲まれ、上洛への道はけわしいものでした。
[図表1]1568年ごろの戦国大名勢力図 塩飢饉のころの勢力図です。信玄の領地は内陸で、塩の入手に苦労していました。また、周囲を強敵に囲まれ、上洛への道はけわしいものでした。

 

この騒動を知った謙信が、「戦いは兵力をもって行うもの。自分は塩で相手を屈服させるようなことはしない」と述べて、日本海の塩をすぐさま信玄に送った話は有名です。苦しむ敵に救いの手を差し伸べることを意味する「敵に塩を送る」という言葉は、この故事から生まれました。謙信らしいエピソードですが、実際には越後の塩は以前から甲斐で販売されており、謙信が他の大名と同調するのをきらって、塩の販売を止めなかったのが真相のようです。

 

いずれにしても、この事件を通じて、命を支える塩の入手を他国に依存するのがどんなに危険か、信玄は痛感したことでしょう。

 

そこで信玄は味噌に目をつけました。信玄の領地は大豆の産地で、山国の涼しい気候は味噌造りに適しています。たくさん造って保存しておけば塩分に不自由しませんし、塩そのものを摂取するより養生に役立ちます。大豆を発酵させて造る味噌には、質の良い植物性蛋白質に加えて、アミノ酸、ビタミン、そしてカリウム、マグネシウムなどのミネラルが豊富に含まれているからです。

 

当時の兵法書にも、「味噌が切れれば米なきよりくたびれるものなり(米が不足するより、味噌が不足するほうが体にこたえる)」と書かれており、どの武将も戦には必ず味噌を持参していました。

 

味噌をそのまま持ち歩くと鮮度が落ちるため、よく使われたのが[図表2]に描いた「芋がら縄」です。里芋の茎にあたる、ずいきと呼ばれる部分を乾燥させて縄のように編み、味噌、酒、鰹節をしみ込ませたもので、しっかり干すと保存が利きます。

 

里芋から作るずいき、ヒョウタンから作る干瓢(かんぴょう)は古くからある保存食です。熊本城を築いた加藤清正は籠ろう城じょうに備えて畳材の一部にずいきを使い、壁には干瓢を塗り込めさせたそうです。 イラスト:佐藤 正
[図表2]芋がら縄は戦国時代の非常食 里芋から作るずいき、ヒョウタンから作る干瓢(かんぴょう)は古くからある保存食です。熊本城を築いた加藤清正は籠城(ろうじょう)に備えて畳材の一部にずいきを使い、壁には干瓢を塗り込めさせたそうです。
イラスト:佐藤 正

 

縄として使えるだけでなく、かじれば塩分を補給でき、刻んで湯に入れれば里芋の茎が具になった即席の味噌汁になりました。味がちょっと薄そうですが、実際はどうだったのでしょうか。

 

◆お手軽味噌と熟成味噌

 

信玄は満足しませんでした。味噌をしっかり摂取するにはどうしたらよいか知恵を絞り、陣立(じんだて)味噌を考案しました。

 

現代の信州味噌は信玄の領地で造られていた味噌の流れをくむもので、通常は2~3ヵ月熟成させます。これに対して陣立味噌は20日くらいで完成する、いわばお手軽味噌でした。原料である煮豆をすりつぶし、麹と混ぜ合わせて腰に下げて出発すると、戦地に着くころ味噌ができあがるというすぐれものです。

 

信玄は陣中食にもこだわり、さかんに「ほうとう」を作らせました。小麦粉で打った麺を野菜とともに味噌で煮る料理で、こんにちでは山梨名物になっています。

 

周囲には山菜がいくらでも生えていますから、持参するのは小麦粉と味噌だけです。小麦粉は米より軽く持ち運びに便利ですし、慣れた人が麺を作れば、ご飯を炊くより早く食事の用意ができたでしょう。山の中でも体が温まり、栄養満点です。有名な風林火山の旗印に「疾(はやき)こと風のごとく」と書かれているように、素早い移動が求められる戦地では大変合理的な食事でした。

 

日本で初めて味噌工場を作らせたのは仙台の伊達政宗です。独眼竜で知られる政宗は、子どものころに天然痘に感染したことで右目の視力を失いました。

 

天然痘のワクチン接種が普及するまで、天然痘は日本人が失明する最大の原因だったのです。独眼竜の呼び名は江戸時代になってからつけられたものです。

 

同じ戦国武将でも、政宗は信玄より46歳も年下でした。1601年、仙台に築いた青葉城に移った政宗は、戦の勝敗を左右しかねない味噌を自給するため、城下に大規模な味噌醸造所を建造しました。大豆の比率を高めて風味を増し、長く熟成させることで保存性を高めた政宗の味噌は、現代まで続く仙台味噌のいしずえとなりました。

 

 

奥田 昌子

内科医

 

日本人の病気と食の歴史

日本人の病気と食の歴史

奥田 昌子

KKベストセラーズ

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