安土桃山時代の幕開け~信玄の死後、多様化した食文化
戦国最強とうたわれた信玄は静岡の三方原で徳川家康を撃破して、いよいよ京を目指そうかというところで病に倒れました。死因は結核という説もありますが、おそらく胃がんで、52歳で亡くなりました。
最大の脅威だった信玄の死によって織田信長は天下統一に歩を進め、1568年、ついに京にのぼりました。安土桃山時代の幕開けです。これに先立つ1543年に鉄砲が伝来し、1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しています。
ポルトガル、スペインとのあいだに南蛮貿易が始まると、戦国大名には鉄砲、火薬、鉄、皮革などの軍需品が、公家にはヨーロッパの毛織物、中国大陸の絹糸、熱帯の香料などの珍しい品々が、そしてスイカ、カボチャ、玉葱、唐辛子、サツマイモ、ジャガイモ、トマト、ホウレン草、イチジク、ブドウなどなど、それまで見たこともなかった食材が次々にもたらされ、時代がくだると国内でも栽培が始まり、庶民の口にも入るようになりました。
私たちが食べている野菜や果物のうち、日本原産のものはフキ、ウド、みつば、セリ、ワサビ、ミョウガなど、果物は梨、柿、みかん、すももなどです。それ以外の野菜と果物は、大部分が弥生時代か南蛮貿易の時代、もしくはそれ以降に海外から伝わったものです。
天ぷら、がんもどきの伝来をきっかけに、油で揚げる調理法も知られるようになりました。カステラ、金平糖、ボウロ、ビスケットなどのお菓子、さらにはパンも伝えられ、南蛮菓子は大名への贈答品としてもちいられたようです。日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスが織田信長に金平糖を贈ったという話もあります。
このころ日本で作られていた菓子は木の実や穀物、椎茸、干した果物などを材料とする素朴なものだったため、砂糖と卵をたっぷり使う南蛮菓子はそれだけで驚きでした。ただ、ビスケットなどは日本人の好みに合わず、長崎周辺でしか食べられなかったようです。
戦を好んだ織田信長は意外にも健康的な生活をしていた
ルイス・フロイスは日本に30年以上滞在し、日本での布教の記録を『日本史』にまとめています。『日本史』によれば、信長は中くらいの背たけで華奢な体をしていました。ひげは少なく、声は「快調」だったそうです。少し高くて、よく通る声だったのでしょう。
アフリカ系の宣教師を見た信長が、「墨で塗ったんだろう」と言うので、フロイスらが「いえ、この者は生まれつき肌の色が濃いのです」と話しても納得せず、そのくせアフリカ系の宣教師が大のお気に入りだったとか、フロイスが地球儀を見せながら地球が丸いことを説明したときは、信長はすぐに理解して、諸外国の情勢について話すよう求めたなど、信長の人となりを示す記載が盛り込まれています。
性格は、名誉を重んじ、正義において厳しく、戦を好み、侮辱を許さず、決断力があり、尊大で、他の戦国武将を軽蔑していたそうです。人物像がありありと目に浮かびますね。桶狭間の戦いの前には、焼いた味噌をご飯にのせて湯をかけ、立ったままかき込んで出陣したといいますから、家臣たちは振り回されて大変だったでしょう。
ところが、そんな信長も日ごろは意外に健康的な生活を送っていたようです。フロイスによると信長は早起きで、普段は酒を飲まず、食事は節制し、きれい好きでした。
この時代に、多くの戦国大名から信頼と尊敬を集めた曲直瀬道三という医師がいました。信長もその一人で、正倉院に伝わる至宝、蘭奢待をたずさえて道三の屋敷を訪ね、親交を持ったと伝えられています。
信長が曲直瀬道三からどんな助言を受けていたかはわかりませんが、道三は著書に「睡眠時間は短くてかまわない」と記しています。日本人は神経が張り詰めているので、布団の中であれこれ考えてしまう。これは健康に良くないから、4~6時間も寝たら起きてしまえ、というのです。
また、こうも書いています。「飲み過ぎるくらいなら飲まないほうがましだ」「自分は月に4、5回ごちそうを食べる機会があるが、普段は粗食で肉と魚は食べない。おかげで胃腸がすっきりしている。いくら好きなものでも食べ過ぎず、一口残すようにせよ」
そして入浴をすすめ、さらには、「用を足したあとは帯を一度ほどいて衣類をふるい、臭気を除いてから帯を締め直すとよい」と、衛生上の指示がこと細かに続きます。
蘭奢待を贈るほど道三の思想を高く評価していた信長は、おそらく道三の教えを生活に取り入れていたでしょう。ひとたび納得すると間違いなく実行するのも信長らしいところです。
【第1回】縄をかじって塩分補給…武田信玄が「味噌」に命をかけた実情
奥田 昌子
医師