「帰れって言ってんだ!」今にも殴りかかりそうな勢い
さっそくお兄さんと一緒に、山沖さんのところに行ってみることにしました。この日も快晴でしたが、山沖さんの部屋の前だけは洗濯物が干されていません。他3軒の皆さんが「毎日こんなに洗濯されているのですか」と驚いてしまうほど干されているので、まるで山沖さんのお部屋が空き家のように見えてしまいます。
お兄さんが呼び鈴を鳴らしました。前回のように反応はありません。
「政則、いるんだろう? 話をしよう」
そう呼びかけると、今まで沈黙していた山沖さんが爆発したのです。
「帰れ! お前には関係ない」
お兄さんも食い下がります。
「関係ないことないだろう? 俺はお前の連帯保証人なんだぞ。金払えって言われてるんだぞ。関係なくないんだよ。出てこい!」
その大きな声に、先日の左隣の女性も部屋から出て様子を見守ります。
「出てこいよ、ドア開けろよ」
そう言いながら、お兄さんがドアをがちゃがちゃし始めたその時、ドアが中から勢いよく開けられました。
仁王立ちになった山沖さんは、お風呂に入ってないのでしょうか。何日も着替えてないような、汗で汚れたシャツを着て、白髪交じりの髭も髪の毛も伸び放題の姿です。ぷんと酸っぱい臭いがします。
「帰れって言ってんだ!」
今にも殴りかかりそうな勢いでした。
その迫力に皆が後ずさりした瞬間、ドアはまた大きな音を立てて閉じられたのです。
「人が変わったみたい」
左隣の女性が呟きました。
「これは……引っ越しを促すなんて、無理ですね。もう手続きでお願いします」
お兄さんの声も、落胆のあまりか沈んでいました。
山沖さんが家賃を払っていないことの明け渡しの裁判は、順調に進みました。山沖さんは訴状も受け取らず、裁判の日にも出廷せず、答弁書で主張することもなく、流れのまま明け渡しの判決が言い渡されました。
その後も一度も山沖さんと連絡が取れることはなく、手続きは強制執行に進みました。
執行官が気にするのは、山沖さんの年齢です。74歳で認知症もないかどうか、執行で出てもらえる状況かどうかです。
荷物を完全に撤去して明け渡しをする日時を、山沖さんに告知する催告の日が来ました。お兄さんも心配なのか、電車に乗ってこられました。関係者全員が固唾を呑んで、事の成り行きを見守ります。山沖さんと会った日から、すでに2カ月半は経っていました。
「山沖さん、山沖さぁーん、裁判所です。開けてください」
執行官が呼び鈴を鳴らしながら、室内の山沖さんに声を掛けます。
「山沖さん、鍵開けますよ」
この前は自分からドアを開けていましたが、今回は執行官が鍵を開けます。
体調が悪くて寝込んでいるのでは、皆がそう思いました。
開錠されドアが開くと、山沖さんは玄関に立っていました。遠くからの様子ですが、それでも元気がないことは明確です。
「家賃払ってないからね、明け渡しの手続きになっていますよ。分かりますか?」
執行官が優しく言っても、さして反応がありません。
「来月の5日に荷物を完全に撤去するからね。それまでに引っ越し先を見つけて出てくださいね。ここに紙貼っておくから。役所に相談したらいいと思いますよ」
執行官は荷物を運び出す断行の日時が記載された公示書を、ドアの裏側に貼りました。今後の流れも説明されているのですが、山沖さんは聞いているのかいないのか、ただ公示書を眺めているだけです。前回より髪の毛も髭も伸び、同じ服なのでしょうか、さらに汚れた様相で生気がありません。ご飯をきちんと食べていないのか、かなり痩せた印象も受けました。
説明が終わり、ドアを閉めたところで執行官が呟きます。
「これ……このままじゃ断行厳しいかな。ちょっと検討してみて」
このままでは強制執行が、不能で終わりそうです。不能となれば家主側は滞納者に退去してもらうことはできず、何も動かなくなってしまいます。そしてこれは山沖さんにとっても、何ひとついいことはありません。滞納のことは少し横に置いておいて、山沖さんがきちんと一人で生活できるなら、気にすることはないでしょう。でももしご飯も作れない状態なら、精神や体を患っていたら、民間の賃貸物件で生活を続けることは、山沖さんにとって無理なことかもしれません。
「弟は鬱病で、仕事を少し休んでいた時期が昔ありました。今日の様子はちょっとその頃と似ているような気がします。遠目からしても、形相はちょっと普通とは言えない感じでしたよね」
お兄さんは、やはり弟の政則さんが心配なようです。
「自分の方でも、ちょっと通ってもう一度話ができるようにやってみます」
先日あんなに怒鳴られても、金銭面で迷惑をかけられていても、それでも兄弟。関わりたくないと言っていたのに、これだけ何とかしようと思う絆ってすごいものなんだな、そう感じました。
荷物を完全撤去する断行の日まであと10日ほど。執行が不能になれば、家主さんにとって「山沖さんに退去してもらえない」ことが確定してしまいます。何とかしたいけれど、どうしたもんだろう……そう思いあぐねていた矢先、お兄さんから電話がありました。
「弟が入院しました」
急転直下です。
どうやらお兄さんが政則さんのところに会いに行ったら、今度は山沖さんが包丁を振り回して部屋から出てきたとのこと。隣の住民の女性が慌てて警察を呼び、山沖さんを連行。精神的におかしな状況だったので、措置入院させられたということでした。栄養状態も悪かったらしく、検査をしつつこれからのことを考えていきますとのことでした。どう考えてもあの部屋でそのまま生活できるとは思えず、強制執行を予定通り進めることになりました。
執行官に事情を話すと「それなら仕方がないね」と、ちょっとホッとした様子でもありました。
最終的に、この案件は措置入院という想定外のところで着地しましたが、今後高齢者が滞納する案件も増えてくるはずです。しかしその時に強制執行ができなければ、家主は家賃を払ってもらえない、それでも出て行ってもらえないという最悪な状況になってしまいます。
ビジネスはリスクを伴うものとは言え、これを民間の家主がすべて背負うのは厳しいもの。国や行政が、シェルター的な場所を準備すべきと願ってしまいます。ただこの先急加速度的に高齢者が増えて無策のままだと、日本の国土はシェルターだらけになってしまいそうな気もします。
そもそもこの問題、国はどう対策を講じているのでしょうか。
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太田垣 章子
章(あや)司法書士事務所代表/司法書士