今回は、関東大震災のメカニズムと被害状況から、東京を中心とした首都圏が抱える地震のリスクについて考えていきます。本連載は、建築耐震工学、地震工学、地域防災を専門とする名古屋大学教授・福和伸夫氏の著書、『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』(時事通信出版局)の中から一部を抜粋し、大震災の危険性はどれほど高まっているのか、さらに対策はどれほど進んでいるのかを紹介しながら、防災・減災に向けた早急な対応の必要性を説いていきます。

「東京の地震」ではなかった関東大震災

関東大震災を起こした大正関東地震は、プレート境界の地震です。南海トラフ地震を引き起こすフィリピン海プレートの東の端の方が、相模トラフという相模湾の海底で、陸のプレートに潜り込んでいる場所で起きました。

 

相模トラフの地震は、200年に1回くらい繰り返し起きているようです。関東大震災の1回前が江戸時代の元禄地震(1703年)でした。

 

* 江戸直下の安政江戸地震は震源の深さがよく分かっていません。上に2~3キロも堆積物がたまっているため地表に断層が露頭しません。被害データしかないので、北米プレートの中で動いたのか、フィリピン海プレートの中で動いたのかも分かっていません。首都直下地震は明治東京地震(1894年)、安政江戸地震(1855年)、小田原地震(1853年)などと100年以下のピッチで起きています。首都圏のどこかでM7クラスの地震が起きる確率は今後30年間で70%程度とされています。

 

同じフィリピン海プレートが引き起こす南海トラフ地震は、100~200年に1回と言われていますが、相模トラフ地震が200年に1回くらいなのは、前回で触れた伊豆半島が関係しているのかもしれません。

 

伊豆半島をはさんで両側の相模トラフと駿河トラフは、伊豆半島がジャマをしていてフィリピン海プレートが潜っていきにくい。そのため、相模トラフの地震も200年くらいに1回のスパンとなり、駿河トラフの東海地震も南海トラフ地震の際に毎回、地震が起きるわけではないとも考えられます。

 

* 関東大震災の1回前の元禄地震(1703年)は房総半島の東側まで震源域とし、大正地震より巨大な地震でした。

 

大正時代の関東大震災のメカニズムがほぼ解明されたのは昭和40年代でした。震災当時の地震波形をみると、関東では強い揺れで振り切れていました。その後、離れた場所の波形を調べて、ようやくプレートの壊れ方が推定できたのです。

 

* こんなに地震が起きやすい東京都ですが、関東大震災の後は大きな地震は起きていません。『東京都防災ハンドブック』によると、最近の都内の地震による死者は1980年の千葉県中部地震で1人、1993年の東海道はるか沖を震源とする地震で1人、2000年の伊豆諸島近海地震で1人、2011年の東日本大震災で7人となっています。

 

その後、関東地震の姿をさらに明らかにしたのは、本書『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』の「2章 日本を終わらせないためにホンネで話した」でも登場した名古屋大学教授の武村雅之さんです。

 

武村さんのヒアリングや文献調査によって、従来の見方を覆す興味深いことが次々と分かりました。著書『関東大震災大東京圏の揺れを知る』などには興味深い話があふれています。例えば、以下のようなことです。

 

●従来はM7.9といわれたがM8.1プラスマイナス0.2だった。

●発生時刻は11時58分32秒。東京での揺れ始めは、11時58分44秒。大きく揺れたのはさらに10秒後。

 

* 明治4年(1871)以来、毎日「午砲(ごほう)」といって江戸城旧本丸で正午に空砲を射ち、時を知らせていました。「正午のドン」です。武村さんの本は『東京灰燼記』(大曲駒村著)に「大震の最中にどんが鳴った」と書いてあること引用し、「東京で本震から数えて3度目の強い揺れは12時3分くらいにあり、もし大曲駒村が聞いたのがドンであるとすれば、大揺れの中、やや遅れてドンが発射されたことになる。それにしてもあの大地震の最中によくドンを射ったものである。職務に対する責任感は見上げたものだと言わざるを得ない」としています。

 

●M7以上の余震が6回もあった。翌年1月に起きた丹沢での6回目の余震では19人が死亡。

 

●死者数は従来言われていた数より4万人ほど少ない10万5000人(行方不明者と重複でカウントされていた)。

 

●火災以外の死者も1万4000人。阪神・淡路大震災の直接死約5500人や濃尾地震の7200人を上回る。

 

* 関東大震災は火災被害の印象も強いですが、揺れによる全壊家屋数は約11万棟もあり、家屋倒壊による死者数も約1万1000人と、阪神・淡路大震災の被害を上回っています。

 

当時の東京市の人口220万人に対して死者6万9000人、横浜市は人口42万人に対して死者2万7000人でした。横浜の死亡率は東京の倍にもなります。

 

関東大震災は「東京の地震」と思われていますが、震源域は神奈川から房総半島南部にわたり、神奈川県や千葉県南部で強い揺れになりました。これに加えて、地盤が軟弱な東京の沖積低地が強く揺れたのです。

 

現在、東京23区の人口は約950万人、横浜市は約370万人。当時の死亡率を当てはめると、今の東京23区で約30万人、横浜市で23万人以上が犠牲になる計算です。

 

* 現在、関内周辺には横浜一の官庁街やビジネス街、スタジアムや中華街があり、近くには震災がれきで埋め立てた山下公園もあります。市役所も高層で湾岸に建て替えられています。多くの人が行き交うにぎやかな街の風景は良いものですが、災害危険度の高い地域であることが忘れられていないか心配になります。

 

住宅の全壊棟数は東京市(当時)が約1万2000棟、横浜市が約1万6000棟で、人口では東京市の5分1ほどだった横浜市の被害は甚大でした。特に埋立地である関内駅周辺の被害は壊滅的と言えるほどのものでした。

軟弱な低地への都市の拡大が招いた被害

しかし、当時からメディアが東京のことばかり報道したので、みんな横浜のことを気にしませんでした。横浜や房総は見捨てられたとも言えます。

 

災害があったとき、悲劇の中心として報道される場所と、被害は大きいのにあまり報道されない周辺の場所があります。昔も今も、メディアはそうした不公平さを抱えています。

 

熊本地震でも、同じ震度7だったにもかかわらず、益城町はどんどん報道されて、西原村はあまり報道されませんでした。2018年の北海道地震でも厚真町は報道されたけれど、むかわ町、安平町の情報はあまり出てきませんでした。

 

語り継ぐ人がいなければ、悲劇は忘れ去られていきます。

 

津波の記録もあります。プレート境界の地震だったため、地震後に伊豆半島から相模湾、房総半島の沿岸に高い津波が押し寄せました。特に熱海、伊東、鎌倉、館山などの津波被害は甚大で、犠牲者は200~300人に上りました。土砂災害も各地で発生しました。神奈川県秦野市と足柄上郡中井町の境界には地震で崩れた土砂によってできた「震生湖」があります。全体の死者は700~800人。中でも小田原の根府川駅では山津波によって列車が駅もろとも海に転落し、さらに津波にも襲われ、100人を超える犠牲者を出しました。

 

* 震源に近い所で起きている土砂崩れは2018年の北海道地震、2016年の熊本地震で起きたことと共通しています。

 

とはいえ、犠牲者の死因の9割は火災でした。焼失棟数は21万棟にも上っています。地震発生時刻が昼どきで、前夜から台風が来て風も強かったため、住家が密集している東京や横浜では大規模な地震火災が発生したのです。

 

* 東京の西側で圧死によって命を落とした人は1500人程度だったようです。関東大震災より地震規模が大きかった元禄地震での江戸府内での犠牲者は340人でしたから、当時の江戸の町人の人口が35万人程度だったことを考えれば整合しています。

 

特に現在の墨田区にあった陸軍被服廠(しょう)跡では、多くの住民が避難しているところに火災旋風が襲ったため、4万人弱が犠牲になりました。現在は横網町公園として整備され、震災後に建設された東京都慰霊堂や復興記念館で震災の資料を見ることができます。

 

横浜や東京の被害の大きな原因は、軟弱な低地への都市の拡大にあったとみられます。下町と山の手の死者は6万人と1万人、下町の人口は4分の1なので、死亡率は25倍ぐらい下町の方が高かったのです。下町の人口をどんどん増やしている首都圏の土地利用のあり方は、やはり根本から改めるべきではないでしょうか。

 

必ずくる震災で日本を終わらせないために。

必ずくる震災で日本を終わらせないために。

福和 伸夫

時事通信社

必ず起きる南海トラフ地震。死者想定は最大32万3000人。1410兆円の損失。それは日本を「終わり」にしてしまうかもしれない。直下地震で東京の首都機能喪失も。電気、ガス、水、通信を守り、命と経済を守り抜く。安全保障として…

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