古地図から見える関東大震災…東京で震度7を記録した地域は?

今回は、関東大震災のメカニズムと被害状況から、東京を中心とした首都圏が抱える地震のリスクについて考えていきます。本連載は、建築耐震工学、地震工学、地域防災を専門とする名古屋大学教授・福和伸夫氏の著書、『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』(時事通信出版局)の中から一部を抜粋し、大震災の危険性はどれほど高まっているのか、さらに対策はどれほど進んでいるのかを紹介しながら、防災・減災に向けた早急な対応の必要性を説いていきます。

「想定外」を反省した気象台長

寺田寅彦は、上野の喫茶店で地震にあったときの様子を『震災日記より』にこう書き残しています。

 

「椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち)で急速に乱打するように感じた」

 

「丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向(あおむ)いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみしみしみしみしと音を立てながら緩やかに揺れていた」

 

初期微動と主要動との時間差、揺れの長さ、長周期の揺れなど、震源から少し離れた場所での巨大地震の揺れの特徴を見事に表現しています。寺田の筆致は冷静で、最初の大きな揺れの後、同じ食卓にいた人たちは出口の方に駆け出したが、筋向いにいた中年の夫婦のうち夫人が「平然と(ビフテキの)肉片を口に運んでいた」と書いています。

 

* さらに寺田は振動が衰えてから、外の様子を見に出ようとしますが、喫茶店のボーイも一人残らず出てしまって勘定をすることができません。「そのうちにボーイの一人が帰って来たので勘定をすませた。ボーイがひどく丁寧に礼を云ったように記憶する」とも書いています。

 

この後、寺田は日本橋に出て昼食をとる予定でした。

 

「あの地震を体験し下谷の方から吹上げて来る土埃(つちほこ)りの臭を嗅いで大火を予想し東照宮の石燈籠のあの象棋(しょうぎ)倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずそのままになっていた。しかし弁天社務所の倒潰(とうかい)を見たとき初めてこれはいけないと思った、そうして始めて我家の事が少し気懸りになって来た」

 

と実感をつづります。

 

「無事な日の続いているうちに突然に起った著しい変化を充分にリアライズするには存外手数が掛かる」と、被災した後でも災害をちゃんと捉えるのが難しかったことを告白しています。

 

一方、後に中央気象台長を務めた気象学者の藤原咲平は当時、気象台の職員でしたが、発災後も気象台が火事になるとは思わず、警告を発しなかったことを反省した文章を雑誌『思想』に掲げています。藤原は揺れの後、水道管の破壊を予想して官舎の風呂おけなどにすべて水を張らせましたが、気象台は市街から離れているので、それ以上を考えませんでした。

 

* 藤原咲平は気象学者で、1941年に中央気象台台長となりました。戦後わずか1週間でラジオの天気予報を復活させ、気象事業の再建につとめました。作家の新田次郎はおいに当たります。

 

「自分は始めまさかと思うて居って其の為に困難に陥り大切な物も燃やして仕舞った。あんな時に落付いて居って火災に関する警告をいち早く発したならば多少の効果はあったかも知れぬと思うた。要するに知識なんてものは有った所で活用せなければ役に立たない」といった具合です。

 

被災した防災のキーパーソンとも言える2人でも、ただちに「リアライズ」できない災害の巨大さ。武村さん(本書『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』の「2章 日本を終わらせないためにホンネで話した」で登場する、武村雅之名古屋大学教授)は、寺田や藤原の文章から「人間は予測が苦手」だと指摘します。私もつくづくそう思います。

災害があぶり出す古地図

武村さんは丹念な研究で、関東大震災の震度分布を割り出し、詳細な地図をつくりました。この地図からは、江戸以前の古い東京の地形が浮かび上がってきます。著書『関東大震災』に、以下のような記述があります。

 

1540年ごろの江戸 出典:『江戸・東京の地理と地名』鈴木 理生、日本実業出版社、2006 年の地 図を元に簡略図を作成
[図表1]1540年ごろの江戸
出典:『江戸・東京の地理と地名』鈴木理生、日本実業出版社、2006 年の地図を元に簡略図を作成

 

「神田川は…江戸時代以前は平川と呼ばれ流路も異なり、本郷台を突っ切ることなく、水道橋付近で流れを南に変え江戸城の東側から日比谷入江にそそいでいた。水道橋付近から現在の日本橋川の方向に流れていたことになる」

 

「日比谷入江が埋め立てられたのは慶長年間である。さらに、元和六年(一六二〇)、徳川秀忠の政権時に、江戸城を洪水から守り、土砂による江戸の湊の埋没を防止するため、本郷台地を掘り割り、現在の放水路をつくって神田川を隅田川に直結するようにした。

 

このように地表の形は変わっても、地下にはもともと平川が洪積台地を削った谷が日比谷入江の下の丸の内谷から、(中略)水道橋へと続いている」

 

* 安土・桃山時代、大手町から芝にかけて東京湾の入江がありこれが日比谷入江。その東には半島状に突きだした江戸前島がありました。現在の日本橋や銀座などは前島の上に位置します。前島の東には隅田川が注ぐ江戸湊が広がっていました。

 

* JR御茶ノ水駅のあるくぼみ「お茶ノ水の掘割」は平川の流れを変える放水路として掘られました。ここから湧き出す水の水質がいいので、将軍の茶の湯の水にしたことから地名がついたと言われています。

 

「(関東地震で)震度が六強から七の地域は、まさにこの埋没谷に沿っているのである。その中で特に震度が高い神田神保町から水道橋にかけては(中略)大池と呼ばれる沼地であったことも注目すべきである」

 

今の飯田橋、水道橋から九段下、竹橋、大手町、丸の内、日比谷、新橋にかけて、関東大震災で揺れの強かった地域が帯状に続いています。武村さんの作成した震度分布図では「震度7」や「6+」となっています。これは、飯田橋から竹橋にかけて流れていた平川の「痕跡」です。1540年ごろには平川は「白鳥池」から流れていて、小石川と合流して日比谷入江に注いでいたようです。

 

痕跡は地名に残っています。「平河町」という地名を思い浮かべてください。皇居の北側には「平川門」や「平川濠(ごう)」があります。白鳥池は今の飯田橋の北側に広がっていたようで、「白鳥橋」という地名が残っています。大手町から新橋の西側は日比谷の入り江があった場所です。災害は旧地形をあぶり出すとも言えそうです。

 

関東大震災で震度が大きかったところ 出典:武村雅之・名古屋大学教授作成の地図を加工
[図表2]関東大震災で震度が大きかったところ
出典:武村雅之・名古屋大学教授作成の地図を加工

 

九段会館は江戸末期の地図を見ると池の上です。「3.11」の時に天井が崩落し、お二人の方が亡くなったのも決して偶然ではないと言えます。平川の下流の一部だった日本橋川の上に首都高速があるのは大丈夫なのでしょうか。それに沿って気象庁や東京消防庁の建物があるのも心配です。どうも、二つの建物は、皇居の鬼門を守っているようです。

 

* 平川の下流の一部は、皇居の壕として残っている他、日本橋川もその一部です。平河町周辺はやたら谷と山が多い所です。

 

この他、武村さんの震度分布図において、都心で「震度7」となっているのは皇居の南、赤坂の溜池付近と麻布一の橋付近です。

 

* 「溜池」とは「東京都港区赤坂の低地にあった池。江戸初期まで飲料水(溜池上水)として利用されたが、玉川上水の完成により埋め立てがはじまり、明治初期には完全に陸地化した。ひょうたん堀。大溜」(日本国語大辞典)

 

虎ノ門から赤坂見附は溜池があった場所です。麻布一の橋は渋谷を流れる渋谷川が天現寺(南麻布4丁目)で古川となり、南に流れを変えるところです。1460年ごろの地図をみると「古川池」という沼地になっています。昔は原野を流れる川が沼や池をつくり、海に注いでいた。ここでも、かつての地図の川や池が浮かび上がります。

 

* 「これらの地域に共通する特徴は、台地を刻む河川が海へ出る少し手前に沼や池ができていることである」と武村さんは書いています。

 

こういった水辺の場所は、地盤が軟らかいため液状化が起こったり、強い揺れになったりすることが心配されます。また、相対的に低い位置ですから、大雨が降ると水があふれやすい場所にもなります。

 

* 1947年のカスリーン台風で水害を受けた所はかつての利根川の流れそのものです。2018年の西日本豪雨も同じで、隠れた川がもう一度現れる。北海道地震の清田区里塚の液状化もその一つ。昔の谷が液状化しました。

 

* 武村さんの『関東大震災』によると、埼玉県東部、特に大宮台地の東側の震度が高かったそうです。江戸時代初期に利根川や荒川の流れを変える「瀬替え」が行われましたが、もともと大河川が集まる地域だったためではないかと推定しています。

 

現在の浅草公園の西側から吉原にかけては、かつて「千束池」と呼ばれた巨大な沼地がありました。この辺りの震度も強く、武村さんは「…千束池は深さが20メートル以上もある深いものであったとの推定もある。池の底の堆積物やその後の埋め立ての影響が吉原を中心とした浅草区北部や下谷区北部での震度高さに関連している可能性も考えられる」と指摘しています。

 

隅田川の東側も武村さんの地図では「震度7」となっています。ここはもともと海の中で、干拓地ですからどうしようもありません。縄文時代、海だったところに北側から利根川が流れてきて土砂を堆積させました。

 

かつては利根川が東京湾に注いでいたものを千葉県の銚子の方に抜けるよう付け替えられたのはよく知られています。その付け替える前に位置していた辺りが、見事に震度が大きくなっています。東京スカイツリーは、最もよく揺れた場所にあります。

 

* 首相官邸は谷の上の台地にあります。武村さんの地図では首相官邸も霞が関の官庁街もみな「震度5-(マイナス)」になっていてあまり揺れていません。明治政府は建設技術が未熟だったため、軟弱な日比谷に官庁をつくることを断念し、公園にしました。東京駅の東側の銀座や日本橋の揺れはあまり強くありませんでした。この場所は上野や本郷の台地の延長に位置する前島にあるため、地盤も相対的に固いからです。

 

東京の旧地名は「江戸」。「江」と「戸」ですから、大きな川の入り口を連想させます。徳川家康が江戸に入った1590年当時、湿地帯と原野ばかりの土地を見て、家康はどう感じたでしょうか。

 

江戸時代の大改造によってつくられた東京の街は、同じ都内でも、ずいぶん災害危険度が異なります。ビルとアスファルトに覆われて、かつての地形はかなり分からなくなっていますが、残っている地名や坂道からも地形の変化を感じとることができます。東京は全国で最も坂道の多い都市の一つ。23区内に名前が付いている坂道は740もあるそうです。坂道が多いのは、武蔵野台地の端の港区と文京区、少ないのは低地の墨田区と足立区です。

 

こんな風に東京の街を「ブラタモリ」のように歩いてみたり、電車の車窓を眺めたりして、地形の変化を感じてみてください。

 

名古屋大学教授 減災連携研究センター長

1957年生まれ、名古屋市出身。名古屋大学教授・減災連携研究センター長、あいち・なごや強靱化共創センター長、工学博士、日本地震工学会会長など。81年3月名古屋大学大学院工学研究科修了。同年大手建設会社入社。91年名古屋大学に転じ、2012年1月より現職。専門は、建築耐震工学、地震工学、地域防災。早期の耐震化を強く訴え、防災の国民運動作りを率先。「自然災害は防ぐことは出来ないが、その被害を減らすことはできる」という信念のもと、研究のかたわら、耐震教材を多数開発し、全国の小・中・高等学校などで「減災講演」を続けている。巨大な建物を実際に揺らすことのできる世界に類をみない研究・展示施設、名古屋大学「減災館」はその結集とも言える。中央防災会議防災対策実行会議に設置された「南海トラフ沿いの異常な現象への防災対応検討ワーキンググループ」の主査を務めた。

著者紹介

連載来たる大震災を前に本音で語る…巨大地震対策の実情

必ずくる震災で日本を終わらせないために。

必ずくる震災で日本を終わらせないために。

福和 伸夫

時事通信社

必ず起きる南海トラフ地震。死者想定は最大32万3000人。1410兆円の損失。それは日本を「終わり」にしてしまうかもしれない。直下地震で東京の首都機能喪失も。電気、ガス、水、通信を守り、命と経済を守り抜く。安全保障として…

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