設計現場で地盤の揺れを想定した「新設計法」が使われない現実

今回は、耐震基準の歴史を振り返ります。※本連載は、建築耐震工学、地震工学、地域防災を専門とする名古屋大学教授・福和伸夫氏の著書『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』(時事通信出版局)から一部を抜粋し、大震災の危険性はどれほど高まっているのか、さらに対策はどれほど進んでいるのかを紹介しながら、防災・減災に向けた早急な対応の必要性を説いていきます。

耐震設計の普及の決め手は「構造計算の単純化」

■耐震工学の父・佐野利器の宣言

構造計算の時に使用する標準せん断力係数の「0.2」はもともと、佐野利器(としかた)という建築構造学者が提唱した「水平震度」から出発しています。1880年に山形県で生まれた佐野は、東京大学で建築を学び、辰野金吾とともに東京駅の構造設計などを担当しました。

 

*佐野利器は複雑な地震力について「水平震度」の概念を導入しました。日本最初の鉄骨構造建築である日本橋丸善を設計しています。ただ、この震度は水平加速度を重力加速度で除したもので、気象庁が発表する震度階とは異なるものです。

 

佐野利器(写真:山口三郎兵衛氏提供)
佐野利器(写真:山口三郎兵衛氏提供)

 

東京駅竣工前の1906年、米西部で起きたサンフランシスコ地震を調査。壊滅的な街の被害を目の当たりにしながら、鉄筋コンクリート造の耐震、耐火性も確認し、日本でも普及させるべきだと決意しました。1915年には、「家屋耐震構造論」で工学博士を取得。この中で震度法という概念を提唱しました。

 

それから1923年、関東大震災を経て、佐野が公に宣言したのが次の一文です。

 

「諸君、建築技術は地震現象の説明学ではない。現象理法が明でも不明でも、(地震現象の理学的解明ができてもできなくても)之に対抗するのが実技である、建築界は百年、河の清きを待つの余裕を有しない」(耐震構造上の諸説、『建築雑誌』1926年)

 

つまり、地震そのものの現象が明らかになるまで建物をつくれないなどというのはダメ。建築界にそんな余裕はないと述べています。耐震設計を普及させるには、みんなが扱える単純な方法がいい。そこで佐野が考え出したのが、建物の揺れ(水平加速度)を重力加速度で割った水平震度を建物の重さにかけた力に対して建物の安全性を確認するという単純な計算です。例えば、建物の揺れが200ガルとして重さに「0.2」をかけるだけです。建物が揺れたら加速度が生じる。加速度に重さをかけたら建物に作用する力になる。力は時々刻々変わるが、最大値だけを見れば安全確認はできる―などの考えで導き出した「震度法」と呼ばれる概念です。

 

*物事の本質が分かり、単純化するのは一番難しいことです。それをやった佐野利器は大人物。目的は安全な建物をつくることで、そのためには多くの人が使いやすい単純なものの考え方をつくった。えてして難しいことを言う学者が多い中で、研究のコミュニティーではなく社会の方を見ていた人です。

 

本当の地震の揺れはメチャクチャ複雑なのに、最も大事なことを単純化した。単純化することには功罪の両面がありますが、これはすごく画期的なことでした。ただし、佐野は、煙突のように細長いものには使わないようにとの注意も書いています。さすがです。超高層ビルもイメージしていたのかもしれません。

 

佐野は工学者の立場でありながら、理学者ともよく付き合いました。その上で、理学的なことが全部解決するのを待っていたらダメだと言った。工学者としてものすごく器の広い人、全体を見渡せる人でした。だから、関東大震災のときは後藤新平に見込まれ、帝都復興院の理事・建築局長という、耐震工学者とは思えないような大きな仕事を任されました。その後は東京市の建築局長など、官僚としても辣腕(らつわん)を発揮、清水組(後の清水建設)の副社長も務め建設業の近代化もリードしました。まさに、産官学でそれぞれ大きな足跡を残したのです。

想定外の地震被害のたびに変わった耐震基準

■紆余曲折たどった耐震設計の歴史

関東大震災では、佐野の弟子にあたる内藤多仲(たちゅう)が構造を手掛けた日本興業銀行の建物が、ほとんど壊れませんでした。その4年前に制定されていた「市街地建築物法」には、耐震についての規定は何もなかったため、地震の翌年に佐野の「震度法」を用いた耐震規定が導入されます。それが実質的に、世界で初めての耐震基準となりました。

 

*初めて耐震基準が導入されたときには、水平震度「0・1」が規定されました。当時は材料の安全率が3、地震学者の石本巳四雄が推定した関東大震災の東京本郷の揺れは300ガル程度。建物は壁が多く低層だったので、地盤と建物の揺れはほぼ同じ。ですから、この規定は東京本郷程度の揺れに対して建物の安全を保障するものです。

 

ところがその後、日本は大戦に突き進みます。戦時下に耐震などとは言っていられません。太平洋戦争下の1944年には「臨時日本標準規格(第532号「建築物の荷重」、第533号「建築物強度計算の基本」)」が導入され、設計の際の地震力が一律に減らされました。

 

その結果、何が起こったでしょう。同年に起きた東南海地震では、紡績工場の柱を抜いて飛行機工場にした建物が地震でつぶれ、学徒動員されていた多くの若者が犠牲になりました。戦後の1948年には福井地震があり、福井市のほとんどの建物が壊れました。鉄筋コンクリート造だった大和百貨店もつぶれたため、これはマズイということで1950年に建築基準法がつくられ、改めて耐震基準が導入されました。それまでの市街地建築物法は大都市だけに適用される法律でしたが、建築基準法は全国に適用される法律で、そこに明確に耐震基準が書き込まれたのです。

 

*建築基準法制定時に、地震に対する安全率が3から1.5と半分になったので、逆に水平震度は0.1から0.2と倍になりました。

 

*1964年の新潟地震では、コンクリートの建物はそう壊れず、液状化の被害が多く出ました。建物が傾いただけだったので、耐震規定は変わりませんでした。

 

1968年の十勝沖地震では、強いと思われていたコンクリートの函館大学や八戸の図書館が壊れました。そこで、1970年に建設省の新たなプロジェクトが始動、1978年宮城県沖地震でも同様の被害が出たので、1981年から新耐震設計法が建築基準法施行令に規定され使われるようになりました。

 

それまでは加速度が200ガルの建物の揺れに対して、建物がまったく壊れないという設計法でしたが、新基準では1000ガル程度の建物の揺れに対して、建物は壊れても、人命は損なわないという終局強度型の設計に。一次設計は200ガル、二次設計は1000ガルという、二段構えの構造設計が確立され、現在にも引き継がれています。

 

前にも書きましたが、気を付けないといけないのは、この揺れは地盤の揺れではなく、建物が壊れなかったときの建物の平均的な揺れだということです。昔と比べ、軟らかい地盤に建つ軟らかい高い建物が増えているので、本当は建物は揺れやすくなっています。設計で考える建物の揺れが同じであれば、考えている地盤の揺れは減っていることにつながります。

 

また、鉄筋コンクリートの建物では、壁の多い建物では建物はほとんど壊れないことを前提にして設計するのですが、壁の少ないラーメン構造(Rahmenはドイツ語で「枠組み」のこと)では、建物が損傷することによるエネルギーの吸収効果を期待して、建物の空間を残して人命を守る設計をします。前者の壁の多い建物は大地震後も使えますが、後者の壁の少ない建物は継続使用が難しいと思います。でも、同じ「耐震」という言葉が使われています。

 

壁の多い建物は揺れにくくて、本当に強いんです。熊本地震のとき、震度7を受けたのに、2階建ての西原村役場がびくともしていなかったことを思い出します。北海道地震でも、震度7だった場所の住宅は壁が多かったので、ほとんど被害がありませんでした。

 

*私は設計関係者を相手にした講演でよく「スリット入れてラーメンはダメ」と言います。ラーメンは、柱や梁で骨組みをつくる架構のこと。スリットは柱と壁との間の隙間のことです。ラーメン構造で設計するとき、柱と壁がくっついていると計算プログラムでは、柱と見なしにくくなり、計算が面倒になります。そこで柱と壁の間に隙間をつくることがあるのですが、建物が柔らかくなる結果として、想定する地盤の揺れを過少評価したり、建物の強度の実力を下げていたりすると思います。

耐震設計を普及させた「耐震工学の父」の想い

■忘れられた設計思想

1995年の阪神・淡路大震災では、1981年以前の「旧耐震」の建物に被害が多く、新耐震設計法の妥当性が証明されました。ただし、後述するように本当は新耐震でも背の高い建物は結構、壊れていました。

 

橋本・クリントン会談による規制緩和の一環として2000年、建築の耐震基準が見直され、少し新しい設計法が導入されました。日本の設計法の仕様が「貿易障壁」とみなされ、仕様を規定する設計法から、性能を規定する設計法へ転換しました。木造住宅についても耐震規定が強化され、この年を境に木造住宅の安全性は向上しました。筋交いのバランスのよさや、金物補強の規定が厳しくなったのです。熊本地震ではこの2000年を境に、住宅の被害に差があることが分かりました。

 

阪神・淡路大震災により今にも倒壊しそうなビル(写真:時事)
阪神・淡路大震災により今にも倒壊しそうなビル(写真:時事)

 

新しい設計法では、「時刻歴応答解析」や「限界耐力計算」など、地盤や建物の複雑な動きを考慮した計算法が開発されました。しかし、手間とコストがかかるため、ほとんど使われていません。そして、従来通りの簡易な設計法が、佐野ら先人の思いなどが忘れられて、コストを増やさないために利用されています。耐震技術は向上したとはいえ、洪積台地上に多くの低層建物が建てられていた時代と、川が運んだ土砂でできた沖積低地上に中高層建物が林立している現代とで、どちらが安全かは分かりません。それは、多くの設計者が気付いていない、意外な落とし穴です。

 

2005年には、いわゆる「姉歯(あねは)事件」で耐震設計のチェックが厳しくなり、翌2006年から構造設計一級建築士や構造計算適合判定制度などが導入されます。

 

上杉鷹山は「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」と述べ、鷹山の師、細井平洲は「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」と語りました。私の母校、愛知県立明和高校の前身である尾張藩校・明倫堂の初代督学(校長)であった平洲は、開校のとき「學(がく)思(し)行(こう)相須(あいまつ)」(学び、考え、実行することの三つがそろって、初めて学んだことになる)という言葉を残しました。身にしみます。

 

今こそ、国民の命を守る建築技術者の気概が問われているのではないでしょうか。

 

* 姉歯事件は、姉歯秀次・元一級建築士が構造計算書を偽造し、耐震強度を擬装したとされ起訴された事件。「アネハる」(手抜きをすること)という流行語が生まれました。

 

* 限界耐力計算の手続きでは、地下深くの通常杭を支持するようなところの揺れ方を規定しています。地盤の揺れを想定して建物の揺れを考えます。従来の建物の揺れから考えるのとは全く違います。軟弱な地盤では揺れが大きくなり。軟らかな建物も揺れが大きくなります。最新の科学的知見を入れた先進的な設計法ですが、中層以上の建物だと地震力が大きくなり、従来型の許容力度計算法の方がコストダウンできるから皆そっちを使います。さらに、限界耐力計算法は計算の手続きが面倒です。2000年に導入されましたがほとんど使われていません。

 

 

名古屋大学教授 減災連携研究センター長

1957年生まれ、名古屋市出身。名古屋大学教授・減災連携研究センター長、あいち・なごや強靱化共創センター長、工学博士、日本地震工学会会長など。81年3月名古屋大学大学院工学研究科修了。同年大手建設会社入社。91年名古屋大学に転じ、2012年1月より現職。専門は、建築耐震工学、地震工学、地域防災。早期の耐震化を強く訴え、防災の国民運動作りを率先。「自然災害は防ぐことは出来ないが、その被害を減らすことはできる」という信念のもと、研究のかたわら、耐震教材を多数開発し、全国の小・中・高等学校などで「減災講演」を続けている。巨大な建物を実際に揺らすことのできる世界に類をみない研究・展示施設、名古屋大学「減災館」はその結集とも言える。中央防災会議防災対策実行会議に設置された「南海トラフ沿いの異常な現象への防災対応検討ワーキンググループ」の主査を務めた。

著者紹介

連載来たる大震災を前に本音で語る…巨大地震対策の実情

必ずくる震災で日本を終わらせないために。

必ずくる震災で日本を終わらせないために。

福和 伸夫

時事通信社

必ず起きる南海トラフ地震。死者想定は最大32万3000人。1410兆円の損失。それは日本を「終わり」にしてしまうかもしれない。直下地震で東京の首都機能喪失も。電気、ガス、水、通信を守り、命と経済を守り抜く。安全保障として…

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