「目的」の再確認と「手段」の再構築
私が麹町中学校で実践してきた方法は、学校に限らず、あらゆる組織で活用できます。
目的と手段が一致しないものや、手段が目的化しているものは廃止・見直しをする。その上で、本来の「目的」を再確認して、最適な「手段」を再構築する。そうしたプロセスで改善を図っていくことが大切です。
現在の学校教育を見渡すと、目的と手段の不一致はもちろんのこと、手段自体が目的化されているようなケースがたくさんあります。加えて、そうした矛盾に多くの人が気が付いていないか、あるいは「見て見ぬふり」をして、何らアクションを起こさないでいることについて、なぜなのだろうと、私はずっと考えてきました。
今こそ、目的と手段の不一致がないか、徹底的に検証していく必要があります。そのスタート地点として、「学校は何のためにあるのか」という根源的な問いに立ち返って、読者の皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
「不登校」は責めるものではない
本書(『学校の「当たり前」をやめた。』)の「はじめに」でも書いた通り、学校は人が「社会の中でよりよく生きていける」ようになるために学ぶ場所です。そしてその結果として、学校で学んだ子どもたちが将来、「より良い社会をつくる」ことにつながっていくと考えます。
勘違いしてはいけないのは、「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」にすぎないということです。たとえ、何らかの事情で学校に行けなくなったりしても、学校以外にも学びの場はありますし、社会とつながることだってできます。勉強だってできるし、もちろん立派な大人になることができます。
逆に、学校にきて学習指導要領に定められたカリキュラムをこなしても、知識を丸暗記してテストでよい点をとれるようになっても、社会でよりよく生きていけるとは限りません。この点について、私たち大人はもっと柔軟に考えられるようになっておきたいものです。
麹町中に校長として赴任した年に、不登校になっていた子どもたち全員とその保護者と平日の夜や休日を使って面談をしました。学校に来られない場合は、自宅などで面談を行いました。その中の一人に、学校に来られず、自宅に引きこもっている生徒がいました。本人と面談したときに、やや緊張した面持ちだった生徒に、私はこう話しました。
「別に学校に来なくたって大丈夫だよ。進路のことも、高校に行きたいなら、今からでも全然問題なく行けるし、心配することなんて何もない」
校長から「学校に来なくても大丈夫」と言われると思わなかったのか、少し驚いた様子でしたが、面談が終わる頃には、表情はかなり和らいでいたことを覚えています。
その後、何度か面談をするうちに、その生徒は家の外に出ることができるようになり、それまで苦手だった電車にも乗れるようになって、その後、希望する進路を自ら見つけて、学校説明会にも行き、希望する学校へ進学しました。自らの意思で、自らの進路を切り拓いたのです。受験して合格し、その後、一日も休まず、学校に行っています。
進学後まもなく、彼は私の所へやって来て、学校の様子や自分が取り組んでいることについて、いろいろと楽しそうに話してくれました。
今、不登校に苦しんでいる子どもたちや、その保護者の方々の中には、誰かを恨んでいる人がいるかもしれません。その多くは一方で、自分自身を強く責め続けてもいます。私はそうした人たちに「とにかくもう自分を責めないでほしい」「あなたは何も変わらなくてもいい」と伝えたいと思います。
不登校は社会で騒がれるような問題ではない
一般に、不登校になってしまった子どもの母親の多くは、特に苦しい思いをしています。「こうなってしまった原因は自分なのかもしれない」と責め続けます。そして苦しくなった思いは、夫や家族、他の誰かに向けられます。残念なことに、こうした母親の様子は、不登校の子どもの姿に色濃く影響を与えることとなります。子どもはさらに自分を責め、ほかの誰か、そして母親を責めることによって、ある意味、自分自身を安定させようとしているかのように見えます。
誰かを責め続けている状態の中では、人は自律のスイッチを押すことはできません。まずは、人を責め、自分を責めることをやめさせなければなりません。
学校は子どもに学びたいという気持ちをどのように持たせてあげられるか、一人ひとりの学びをいかに保障するかを徹底的に考えなくてはいけません。繰り返しになりますが、もしそれができないのであれば、別の方法で学ばせてあげればよいのです。
学校は「社会の中でよりよく生きていける」ようになるための場所です。
不登校のありようはさまざまで、必ずしも、麹町中での対応もすべてがうまく行くわけではありません。しかし、少なくとも学校が「手段」の一つにすぎないことは、教師こそが理解すべきだと考えます。それができれば、不登校は世間で騒がれているほど深刻な問題にはなりません。
むしろ、学校へ行かない子どもがいても、周囲の大人が平気な顔でいられるような社会がよいと考えます。