日本のAI研究者に「ある世代」が極端に少ない理由
推論AIをつくろうという第五世代コンピュータで行われた囲碁の研究は、あくまでサブプロジェクトの扱いにすぎなかった。囲碁がプロジェクトの中心になっていたら、違うエンディングにたどりついたのではないか。そう思うと歯がゆい。
ゲームに勝つというアプローチでAIを研究する歴史は古い。1950年には、すでにコンピュータ・チェスの論文が登場している。そして、昔からAI学者は次のように言い伝えてきた。
「Chess is the Drosophila of Artificial Intelligence(チェスはAIのショウジョウバエである)」
遺伝学がハエの研究で進歩したように、AIはチェスの研究で進歩するという意味だ。その時点で海外では、AI開発におけるゲーム研究の重要性が知られていた。それにもかかわらず、なぜ第五世代コンピュータでは亜流の研究におかれたのだろう。不自然ですらある。
第8回(関連記事『官民連合で世界に挑んだ日本のIT…失敗が今日に残したものは?』参照)の最初で挙げた一つ目の疑問、「なぜ、現在の日本のAI研究がアメリカに遅れをとっているのか?」のヒントが、その不自然さのなかに潜んでいるのではないかと私は直感的に思った。
ゲーム情報学の第一人者、公立はこだて未来大学教授の松原仁先生に取材の機会を得た私は、早速かねてより気になっている質問をした。当時、日本ではチェスやゲームの研究はどのような状況だったのか、についてだ。そこから日本のAI研究の課題が浮かび上がるのではないかと私は考えた。
「1980年代、日本のゲームの研究はどのようなものだったのでしょうか?」
穏やかな物腰とは裏腹に、開口一番に松原先生から飛び出したのは驚きの発言だった。
「あのころは、ゲーム研究なんかするやつはクズだと言われていたんですよ」
松原先生は当時のゲーム研究に対する冷ややかな周囲の視線を語った。アマチュア将棋五段という腕前で、AIに興味を持っていた若き日の松原先生は将棋AIを自作し、東京大学の大学院でも研究しようとした。すると周りから厳しい声が飛んで来た。1981年、ちょうど第一次AIブームと第二次AIブームの狭間であった。この狭間の時代は、第一次ブームでAIへの期待をあおりにあおられ、その期待が裏切られた反動の時代である。
第一次AIブームのころには、囲碁AIらしきものが1970年の大阪万博に出品されてもいた。囲碁ができると宣伝された、その人工知能はなんとか詰碁をプログラムどおりに解ける程度の素朴なソフトだったが、もうすぐ人間に勝つ人工知能が登場するという幻想を人々に抱かせるには十分だった。しかし、その幻想も期待も裏切られ、大きな反動の時代が訪れた。世間は、人工知能に冷め切っていた。
「ゲームの研究なんてやっても学者として大成できない。もっと堅(かた)いテーマでないと学者としてポストがないと言われました。これはまだいい方で、ひどい罵声を浴びせられたこともあります。それほどものすごい偏見の目で見られた」
大学院にはAIの研究者はおらず、松原先生は知能ロボットの研究室で学んだ。そこでも、ゲームの研究はタブーだった。「ゲームは遊びでサイエンスが入っていない」「娯楽の要素が強すぎる」「研究は真面目でストイックであるべし」という強い偏見があったのだ。
私は研究開発には「遊び」の要素が不可欠だと考えている。ビジネス化だけに集中していると、どうしても視野が狭くなる。発想の転換や、別の分野から新しい考え方を持って来る思考ができなくなるのだ。すぐにビジネスになるもの、役に立つものだけを考えていたら、誰もデータの収集などしなかったはずだ。最初は役に立たない余分なデータが一定量以上を超えてビッグデータになっていったのだ。
これはすべての研究開発にいえることだろう。「余分」は必要なのだ。本来は学者こそ、遊びや余分を大事にして、広い視野を持つべきである。ゲーム研究を認めなかった当時の状況が、私にはまったく理解できない。
ただし、そんな時代でも若い研究者のなかにAI研究を志す者も少なからずいた。大学院では公に口にできない関心を抱いてしまった若い研究者はおのずと身を寄せ合った。「AIUEO(エーアイ・ウルトラ・エキセントリック・オーガナイゼーション)」という名前で大学の片隅に集い、海外の研究論文を読みあった。松原先生もここに参加した。
「はっきり言って地下活動のようなものですよ。秘密結社みたいな雰囲気だった。非公表な集まりではなかったんですが、学生たちは自分の参加を指導教官に秘密にしていました。あいつらと付き合うなと怒る先生もいましたからね」
私は絶句した。もはや迫害を受けているに等しいではないか。
AI研究に対する偏見の時代
日本でのゲームの研究に対する偏見は信じがたいほど強いものだった。そのため、AI研究そのものも諸外国に比べて遅れをとってしまった。第二次AIブームが来て1986年に学会ができるまではAI研究でさえ主流派に認められることはなかったと先生は言う。
松原先生がゲームプログラミングのワークショップを始められたのが1994年。ゲームを研究するゲーム情報学研究会ができたのが1999年。「逆にいうと1999年までは市民権がまったくなかった」と、先生は当時を振り返る。
しかし、それでもかろうじて市民権を得た状態にすぎず、日本では実に長い間にわたってゲーム研究は疎外されつづけた。先生が1998年に書いた文章※注を読むと、その事情がよくわかる。そこから当時の状況を見てみよう。
※注:「ゲームと情報科学─ゲームの研究はなぜ日本で疎外されてきたか」(松原仁、竹内郁雄編著『ゲームプログラミング』共立出版)
1990年代になると盛んにコンピュータ・チェスのシンポジウムを開催し、AI研究でもっとも権威がある学会誌『AIJOURNAL』に毎年必ず数本はゲーム研究論文が掲載されていた海外の状況とは雲泥の差があると、先生は文章のなかで述べている。
その時点で、創刊10年を経ていた日本の人工知能学会誌では、査読の段階でゲーム研究の論文は「門前払い」にされ、1本も掲載がされたことがない、と。それどころか、ゲーム研究の疎外の事実を詳しく述べることは「あまりに危険なので、ここには書けない事実も多い」とまである。この文章で先生は疎外の理由をいくつか挙げている。以下、重要な点を引用しておこう。
●お金儲けに直接つながらない研究はだめだった
●仕事と遊びをはっきり分けることが美徳とされ、ゲームは仕事ではなく遊びに分類された。仕事は本来苦しいもので、楽しむなどもってのほかであった
●日本では口先では基礎研究が大事と言いながら、本当に基礎研究をやることが許されていなかった
●日本では第1世代の偉い研究者がゲームの研究をしなかった
●日本人は貧乏性なので、周りからの圧力によってではなく、自らの意思で自己規制していた
松原先生は、「ひどい偏見の時代が長く続いた悪影響で、日本のAI研究者はある世代が極端に少ないんです。ちょうど私たちの世代です」と笑う。「その分、研究は海外に大きく遅れをとってしまったかもしれませんね」と。
日本の経営者に足りない「情報科学」の発想
次のような興味深い話を、松原先生は続けられた。
以前の日本では大学と産業界の共同研究を好まない風潮があった。学問はストイックにやるのが美徳で、産業発展に影響のある研究で報酬として株をもらうとか、ストックオプションがつくなんてもってのほかであった。「象牙の塔」を尊びすぎていた。おそらく過度にお金の匂いを嫌ったのも、産業応用ができなかった理由の一つだろう。
そのうえ、日本では大学院の情報科学系の研究室を出ても、大学の先生になるしかキャリアがない時代が長く続いた。アメリカでは、そうした人材が企業の経営に参加したりベンチャーを起業したりと選択肢があった。
日本でも工学部出身者であれば、大企業の経営者になる人は多かったが、情報科学ではほとんど見当たらなかった。日本の近代化が重工業、重化学によって進められたことの影響を引きずっていたのだろう。こうした経営者は得てしてコンピュータサイエンスを重要視していなかった。国を担っているのが工業だという自負があったためだ。
これは産業界だけの問題ではない。政界を見渡しても情報科学系出身の政治家が日本にはほとんどいなかった。理系分野の政治家といえば医師がほとんどだ。
官僚も、重工業、重化学には理解があってもコンピュータサイエンスはそうでもなかった。これもまた日本の近代化の流れのなかから脱することができなかったせいかもしれない。
「せめてプログラミングできる政治家がいれば違うでしょうね」と、先生はまた朗らかに笑う。
この話は、私の歯がゆさと共通するものだった。私は先生に大きく頷いた。国に新しいテクノロジーの重要性を理解できる情報科学系出身のリーダーがいれば、アメリカのOSやスマートフォンが日本に入ってくるときになんらかの参入障壁を設けて、国内の技術開発を保護する政策だってとれたのではないだろうか…。
松原先生を前にずっと考えていたことが口をついた。
「海外製のOSとかいったプラットフォームが、日本に入ることに関税をかければ良かったって思うこともあります」
「ある時期は、日本の産業を保護する政策も有効だったと思います。アメリカだって自由と言いながら、農業は保護していますからね。日本の政治は当時、そこまで気がまわらなかったのでしょうね」
市場保護よりも企業努力が重要なのは言うまでもないが、日本政府は工業分野を守るためにコンピュータ分野をあまり大事にしなかったのではないかと思うのは、私だけだろうか。それともOSといったソフトウェアを正しく評価できなかった日本企業のビジョンこそ大きな問題なのだろうか。
「社長の道楽」で何が悪い
ゲーム研究の状況が好転してきたのは2000年代に入ってである。それでも松原先生が『ゲームの研究は日本で疎外されなくなったのか※注』というエッセイを書けるようになったのは、ようやく2012年になってからだ。
※注:「ゲーム情報学の現在─ゲームの研究は日本で疎外されなくなったのか」(「情報処理」53号/情報処理学会)
AI研究、ゲーム研究が疎外されているなかで、コツコツと自力で研究をしていた松原先生の話を聞いて、私は勇気づけられる気がした。私の囲碁AI開発も、最初は道楽と思われていた。それが「アルファ碁」の登場で、囲碁AIの重要性が知られるようになった。以降、私の活動も周囲に理解されるようになったと感じている。
松原先生が、第五世代コンピュータという巨額な国費が投じられたプロジェクトの裏で、地道に研究の機会をうかがっていたことも象徴的だ。松原先生は研究会を設立し、メンバーを徐々に増やして、研究環境を整えた。国と資金の力を惜しみなく使ったプロジェクトを相手に、先生は情熱で勝利したのだと私は思いたい。
一方で私が懸念したのと同じように、松原先生も企業がゲーム研究に本腰にならなかったことを懸念されて次のように語った。
「囲碁や将棋のAIには汎用性があってビジネスに展開できるはずですよ。でもそういう視点の経営者はきわめて少ない。日本の経営者に情報科学の発想でものを考えられる人が少ないせいもあるでしょう。日本は電機メーカーでもそういう経営者が少ないですからね」
日本企業は研究開発を単に利益でしか評価してこなかった。いや、それは営利企業であるかぎり当然の判断だろう。ただ研究開発の段階で利益を見極めることは簡単ではない。研究開発が目指している社会のビジョンや、テクノロジーの本質的な部分を理解して評価できなければ、それは投資ではなくコストでしかなくなってしまう。利益が見えないと、「社長の道楽」といわれるわけだ。よくある話だ。大ヒットしたTVドラマ『下町ロケット』にも、そんなセリフがあった。
「社長の道楽」も、かえって中小企業なら細々と続けられるかもしれない。これが、ステークホルダーがたくさんいる大企業では困難なことになる。そんなときに、ちゃんと研究開発の内容を理解して、ステークホルダーに説明できる経営者なら、果たして違うのではないか。社長の道楽は大事だ。私が経営者でいる理由は、端からは「道楽」と見られてしまう部分にある。私は組織のなかで、自分がやりたいことをやるために経営者になる道を選んだ。
やりたいことをやろうとすると、得てして反対勢力が現れる。彼らは失敗を恐れ、失敗をされたら困るという。一企業のなかだけでなく業界でも似たようなことが起きる。どこかが難しいチャレンジをしていると聞きつけると、遠回しにあるいは直接、干渉して足を引っ張ろうとする。「できっこない」なんてことを言いふらされたり、さまざまな失敗例をかき集めて、チャレンジを無謀だと断言したりもする。出る釘を打ちたくてしょうがない村社会の根性が顔を出してくるのである。
しかし、責任と決定権を持つ経営者は、反対勢力がいようと、業界から白い目でみられようとチャレンジを諦める必要はない。「道楽」と言いたいのなら、好きなだけ言わせればいい。聞きながして前に進むほうが意味がある。
そして、長い目でみれば、研究開発がなんの成果ももたらさないことはない。どんな研究開発であれ、知見を蓄積し、人を育てるからだ。ゲーム研究がそうであったように、だ。