まだまだ「発達障害」への理解は不十分
発達障害の厄介さは、そのつらさが目に見えにくく、大変さを共感してもらいにくいことです。
たとえば、学習障害で音読が上手にできない子どものことを考えてみましょう。
ほかの分野については支障がなく、文字もまったく読めないというわけではない場合、本人も周りも学習障害だと気づかないことがあります。そうすると、本人の努力が足りないのではないかとか、怠けているだけなのではないか、などといわれることがあります。
もしあなたが学習障害だったとして、国語の授業中のことを想像してみてください。あなたは、クラスメートが音読している間、一生懸命に教科書の文字を追い、必死について行こうとします。それにもかかわらず、読んでいる箇所を見失ってしまいました。焦って追いつこうとしますが、一向に見つかりません。そういうときにかぎって先生に指名され、途端にうろたえてしまいます。早く続きを読みなさいと急かされるほどに、焦って手のひらに汗がにじみ、先生の呆れたような視線や、クラスメートの声もなくクスクスと笑う声に、じっとうつむいてひたすら耐える……。
それがあなたの日常だったとしたら、どうでしょう。
「こんなに一生懸命やっているのに、みんなと同じように教科書を音読することさえできないなんて、自分はダメな人間なのかも」と、どんどん自己イメージは下がってしまいます。
風邪であれば、咳が出たり鼻水が出たりして、周囲もそのつらさをよくわかっているので、休養をとることを勧めたり、不快な症状を和らげるための知恵を教えてくれたりします。
しかし、発達障害の場合は、周囲に発達障害に対する理解が十分になければ、発達障害だということに気づいてすらもらえません。定型的な発達をしている子どもが難なくこなすことができないと、「こんなこともできないなんて、ダメな子だ」などと否定される経験を多くすることになるでしょう。物心ついたときから、そんな環境に身を置かざるをえなければ、自己肯定感が育ちにくいのも当然です。
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発達障害の原因は、脳の中枢神経系の機能障害であるとされています。それにもかかわらず、いまだに、本人の性格によるものだとか、親のしつけが悪いなどと誤解し、心ない発言をする人もいるのが現状です。
発達障害の子どもにとって一番不幸なのは、発達障害そのものではありません。周囲の対応によって、自分はありのままで価値があるのだと感じられず、生きづらさを抱えながら生きていかなければならないということなのです。
発達障害の子どもは、その特性から「問題児」として扱われやすいといえます。
授業中に教室を飛び出してしまい、先生がそれを追いかけるために授業を中断しなければならないということが頻繁にあれば、「問題児」とされるのも仕方ないという見方もあるでしょう。
しかし、問題があるのは発達障害の子どもの方なのでしょうか。
今、社会で求められる人材像は、時代とともに変化しています。
たとえば、戦後の高度経済成長の時代であれば、決まったやり方に沿って、正確に素早く物事を処理できる人材が求められていました。いわば、1を100にできる人物が重宝されたのです。
しかし、現代は科学技術の進歩により、コンピューターやAIにできることがどんどん増えています。すると、物事を正確に迅速に処理するという仕事は、次々に機械に取って代わられます。子どもたちが成人する頃には、現在ある職業のうち、65%がなくなるといわれるのもそういった理由からです。
これから求められるのは、知識を組み合わせて、新しいことをつくり出せる人。時代の流れを乗りこなせるスピード感をもって、0から1を生み出せる人材です。
その価値観で考えると、発達障害の子どもたちはすばらしい才能を持っています。自分の好きなことを、夢中になって追求できる特性を持った発達障害の子どもたちは、イノベーションを起こせる素地を持っているのです。スタンフォード大学で新しい分野をつくり出した人の7割は発達障害だったといわれています。
そのような発達障害の子どもの才能を伸ばせないどころか、潰してしまう教育システムには、疑問を抱かずにはいられません。
周囲の対応が「二次障害」を引き起こす可能性も
発達障害の特性を持ちながら、現在の教育の枠内に押し込められる子どもたちは、どれだけ窮屈でしょう。そして、そこからはみ出したからといって「問題児」というレッテルを貼られ、能力を発揮する機会を奪われてしまうのは、本人にとっても社会にとっても不幸なことです。
例として、ADHDの子どもの日常について考えてみましょう。
多動性によって授業中にじっと席に座っていることができない子どもは、「45分間の授業中、席に着いていることもできないダメな子だ」と問題児というレッテルを貼られます。学校で頼るべき先生から「なぜ静かに席に座っていられないのか」と否定され、世界で一番大好きな親に「どうして先生の言うことが聞けないの」とがっかりされ、クラスメートからは蔑まれる。そんな学校生活が自分の世界のほぼすべてだったとしたらどうでしょう。
自分にとって難易度の高いルールを守ることを強要されて毎日を送らなければならないのは、大きなストレスになります。
ADHDの子どもは、好きこのんで教室からの脱走をくり返しているわけではありません。多動性や衝動性というADHDの特性のために、そうせざるをえないのです。
日本社会は、異質な人を排除しようとする傾向があります。学校では、周りの同級生が難なくできることができないということにばかり焦点が当てられ、すばらしい才能に気づかれることなく、問題児扱いされてしまいます。また、自分を否定され続けた結果、子どもの自己イメージは下がり、自尊感情が損なわれます。場合によっては、いじめの対象になってしまうこともあります。
そうなると、学校に行くことがつらくなり、不登校になって引きこもってしまうということになりかねません。高校や大学への進学でつまずくと、その後の就職にも影響し、将来的に社会の中で生きていくことが難しくなります。
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発達障害の子どもたちの人生に暗い影を落とすものがあるとしたら、それは発達障害そのものではありません。発達障害に対する周囲の対応によって引き起こされる二次障害です。
二次障害としては、不眠やパニック、集団への不適応、不安障害、統合失調症、うつ病などが挙げられます。
発達障害の子どもたちを、無理やり「普通」にしようとすると、どうしても無理が生じ、こういった二次障害を起こしやすくなります。二次障害は子どもの生活の質を著しく下げてしまいます。
過去の時代に求められていた人材を育てるための教育システムの中で、これからの時代に求められる能力を持った発達障害の子どもたちが不当な扱いを受けている。それが発達障害の子どもをめぐる今の環境です。
発達障害の子どもたちの持つ能力が発揮され、社会が発展していくためには、多様性が認められる社会でなければなりません。発達障害の子どもの特性を受容し、個性を認める社会となる転換点に私たちはいるのです。
大坪 信之
株式会社コペル 代表取締役