社会性の練習によって、無理やり枠にはめられてしまう
発達障害の子どもがいきいきと社会で能力を伸ばしていくためには、それぞれの子どもに合った教育を提供できる環境が必要です。定型的な発達をしている子どもと、発達障害とされる子どもとが、お互いの特性を理解し合い、尊重し合えるようにするためにはどのような環境を整えたらよいのでしょう。
現在の発達支援のあり方は、「この子は発達に問題があるから、周りの迷惑にならないように、社会生活が送れるように訓練しましょう」という方向性です。これは本来目指すべき姿ではないと私は考えています。
本来目指すべきなのは「この子は特別な発達をしている天才だから、他の人よりも秀でている才能を伸ばせる環境を提供しましょう」という方向性での発達支援です。
先述したROCKETプロジェクトのような特別クラスが小学校にあるというのが、理想的な姿だと私は考えています(関連記事『発達障害の子どもの「こだわり」を活かす最新教育事情』参照)。
しかし、発達障害の子どもは、嫌々ながらに社会性の練習をさせられ、枠にはめられてしまっていることも少なくありません。これでは「あなたは他の人と違って上手にこなせないことがあるから、指導を受けてみんなと同じことができるように訓練しましょうね」と言われているようなものです。これでは、本人のモチベーションが上がるはずもなく、自己イメージも下がってしまいます。そして、子どもの中に、自分はダメな人間だという考えが染みついてしまえば、せっかくすばらしい才能を持っているのにもかかわらず、自分は最低限のことしかやりませんという消極的な人間に育ってしまいます。
それに対して、「あなたは人とは違う才能を持っているので、特別クラスに入ってそのすばらしい才能を伸ばしましょうね」という方向であればどうでしょう。自尊感情を傷つけられることもなく、のびのびと自分の好きなことを追求して、能力を余すところなく発揮できることでしょう。そのクラスから、将来、世界を変えるようなイノベーションを起こす人が生まれるかもしれません。自分の好きなことを探究するためにフルに時間を使えたら、誰にも負けない武器を持つ人になる可能性があります。
ただここで忘れてはならないのは、特別クラスに通う子が優れていて、普通学級に通う子が劣っているというわけでもないということです。特別クラスに通う発達障害の子どもが、すばらしい才能を持っていることには違いありませんが、普通学級に通う子どものコミュニケーション力や何でもバランスよくこなせる能力も、社会には不可欠なものです。目指すべきは、発達障害の子どもも定型的な発達の子どもも、優劣なく、それぞれが助け合い、尊重し合える社会です。
お互いの「個性」を尊重し合う社会へ
人類というひとつの大きな生き物であるという感覚で生きていけば、それぞれが共生していけるはずです。
たとえば、人体には生死に直接かかわるような心臓のような臓器もあれば、切られても痛くもないし何の支障もない爪のような組織もあります。一見、心臓は人体にとって不可欠なもので、爪はささいなものというように感じられます。
しかし、指に爪がなければ、物を持つことはできません。指で物を持てなければ、とたんに生活が不便になり、食事もままならなくなって、生命の維持に危機がおよぶかもしれません。取るに足らないと思っていた爪でも、存在しなければ人間の体全体が立ち行かなくなるのです。それぞれの機能が違うだけで、そこに優劣はないのです。
人間社会もこれと同じです。すべての人に役割があり、使命を持っています。各々の担う役割や使命に優劣や上下はありません。お互いに感謝し合い、私たちは人類というひとつの生き物なのだという感覚でいけば、共生し合っていけるはずです。
大量生産・大量消費の時代は終わりを告げ、今、価値観の転換が起こっています。世の中は、多様性こそが尊重されるべきであり、価値のあるものなのだというフェーズに入っています。これからは、人と違うことに価値が見出されるようになるでしょう。「この人は一風変わったところのあるすごい人だ」というように認められる社会です。お互いが対等で、ただ役割が違うだけなのです。ともに人類を機能させて存続させるためのパーツなのだから、相互に感謝し合い、助け合うというのが本来の姿です。
みんなが一斉にステータスの高いとされる職業を目指して競争する時代は終わりました。親が自分たちの世代の常識にのっとって、子どもをレールに乗せる時代でもありません。
それぞれの子どもが、自分らしさを認められ、お互いの個性を尊重し合いながら育っていく。そして、その中から社会を変革するような人材が育っていく。そんな環境が当たり前になるべきなのです。
大坪 信之
株式会社コペル 代表取締役