「母が好きなので、お願いします」面会で預けた小さな手土産
「母が好きなので、あとで渡していただけますか?」
62歳の智恵さん(仮名)は、介護施設の職員に小さな紙袋を差し出しました。中に入っていたのは、母親が昔から好んで食べていた一口サイズのカステラです。
智恵さんの母・芳江さん(89歳・仮名)は、約1年前から介護付き有料老人ホームで暮らしています。足腰が弱くなり、自宅で一人暮らしを続けることが難しくなったため、本人とも相談して入居を決めました。
智恵さんは月に2回ほど施設を訪れ、母親と話したり、近況を伝えたりしています。
「母は昔から甘いものが好きで、特にカステラには目がなかったんです。私が子どもの頃も、よく一緒に食べていました」
この日も、面会中に芳江さんから「何か甘いものが食べたいね」と言われたそうです。
智恵さんは帰り際、近くの店でカステラを購入しました。ただ、施設では食べ物の持ち込みについて事前確認が必要とされていたため、職員に声をかけたのです。
「お母さまのお食事の状態を確認してから、お渡ししますね」
職員はそう説明し、紙袋を預かりました。智恵さんも「よろしくお願いします」と答え、その日は施設をあとにしました。
「前に面会したときも、母は普通にお菓子を食べていたんです。だから、今回も大丈夫だと思っていました」
ところが翌日の午前中、施設から電話がかかってきました。
「昨日お預かりしたカステラの件で、ご連絡しました」
職員の言葉に、智恵さんは胸騒ぎを覚えました。
「母に何かあったんでしょうか?」
「今はお変わりありませんので、ご安心ください。ただ、昨日のおやつの時間に、少しむせ込まれる場面がありまして……」
職員によると、芳江さんは前日の午後、施設で提供されたおやつを食べている途中、何度かせき込んだそうです。
職員が食事を中断して様子を確認し、その後は落ち着いたものの、飲み込む力の変化が疑われるため、持参されたカステラはまだ渡していないという説明でした。
「昨日のお菓子が原因だったんですか?」
「いえ、昨日お持ちいただいたものは召し上がっていません。施設のおやつを食べていたときのことです」
智恵さんは少し安心すると同時に、母親の食事に変化が起きていることを初めて知りました。
