「来てくれると思ってたけど」息子に何も頼まなくなった理由
「母さん、その棚どうしたの?」
久しぶりに実家へ帰った直人さん(仮名・45歳)は、リビングに置かれた新しい収納棚を見て尋ねました。
母の悦子さん(仮名・79歳)は7年前に夫を亡くし、一人暮らし。年金は月約13万円、預貯金は約1,200万円あります。持ち家のため家賃負担はありませんが、最近は食料品や光熱費の値上がりを気にするようになっていました。
「前の棚、扉が壊れてたでしょう。処分して新しいのを買ったの」
「一人でやったの?」
「業者さんに頼んだわよ」
家具の処分から新しい棚の組み立てまで依頼し、費用は数万円かかったといいます。直人さんは少し驚きました。
「言ってくれれば俺がやったのに」
その言葉を聞いた悦子さんは、「前にも言ったでしょう」と返しました。半年前、棚の扉が外れかけたとき、悦子さんは直人さんに電話をしていました。
「今度来たときに見てもらえない?」
直人さんは「分かった」と答えましたが、仕事が忙しく、その月は帰省できませんでした。翌月にも、「棚のこと、覚えてる?」と聞かれました。
「覚えてるよ。次に行ったときやるから」
しかし、その次の帰省も延期になりました。
直人さんには妻と中学生の子どもがいます。実家までは車で約2時間。休日には家族の予定もあり、仕事が立て込めば実家へ行けないこともあります。
母を放っておくつもりはありませんでした。「何かあれば俺がやらなきゃ」と思ってはいたといいます。
悦子さんも当初は息子を待っていました。しかし、電球を交換したい、庭木を少し切りたい、重い物を動かしたい――年齢を重ねるにつれ、一人では難しいことが少しずつ増えていきます。
そのたびに息子の予定を聞くことが、次第に嫌になったといいます。
「忙しいのは分かってるのよ。だから、来られないことを責めたいわけじゃないの」
悦子さんはそう前置きしてから、「でも、いつ来られるか分からない人をずっと待つのも困るでしょう」と言いました。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』によると、65歳以上の一人暮らしの人は増加しており、2020年には65歳以上人口に占める割合が男性15.0%、女性22.1%でした。2050年には男性26.1%、女性29.3%まで上昇すると見込まれています。高齢者が子どもと別世帯で暮らすこと自体は、珍しいことではありません。
そしてその日の夕食後、直人さんが、「これからは遠慮しないで頼んでよ」と言ったときでした。悦子さんは少し間を置いて答えました。
「もう、あなたには期待しません」
直人さんは返す言葉を失いました。
