「好きなものを買っていいよ」夫が用意していた300万円
「何か欲しいものを考えておいて」
65歳の雅人さん(仮名)が妻の恵美子さん(64歳・仮名)にそう伝えたのは、退職を1ヵ月後に控えたころでした。
雅人さんは大学卒業後、大手メーカーに入社。60歳で定年を迎えた後も継続雇用で働き、65歳で会社員生活を終えることにしました。
退職に伴って受け取ることになった退職給付は約2,300万円。勤務先の制度が比較的手厚く、長年勤めたことも金額に影響しています。
厚生労働省『令和5年就労条件総合調査』によると、勤続20年以上かつ45歳以上の定年退職者1人あたりの平均退職給付額は、大学・大学院卒の管理・事務・技術職で1,896万円、高校卒の同職種で1,682万円、高校卒の現業職では1,183万円です。雅人さんの2,300万円は、平均を大きく上回ります。
雅人さんは、そのうち300万円ほどを「夫婦のために使うお金」として考えていました。
特に何か欲しいものがあるわけではありません。むしろ、その大半を妻のために使いたいと思っていました。
「結婚してから、ちゃんとしたものを買ってあげた記憶があまりないんです」
恵美子さんは結婚後、子どもが小さい時期には仕事を離れ、その後パート勤務を始めました。家族旅行や子どもの教育費が優先され、夫婦だけのために大きなお金を使う機会は多くありませんでした。
だからこそ雅人さんは、会社員生活の最後くらい、妻に好きなものを選んでもらおうと考えたのです。
「バッグでも時計でもいいし、旅行でもいい。300万円くらいは好きに使おう」
恵美子さんは驚きました。
「そんなに?」
「今までの分だよ」
雅人さん自身、妻が喜んでくれると思っていました。ところが、返ってきたのは予想していなかった言葉でした。
「だったら、私は何もいらない」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮じゃないの。その300万円、これから2人で少しずつ使わない?」
雅人さんには、妻が何を言いたいのか、すぐには分かりませんでした。
