「来月引っ越すから、手伝って」母から娘へのいつものお願い
「市営住宅、当たったよ。来月引っ越すから、また手伝ってもらえる?」
母の久美子さん(仮名・66歳)からそう電話を受けた長女の祐美さん(仮名・39歳)は、すぐには返事をしませんでした。
久美子さんは夫の正夫さん(仮名・68歳)と二人暮らし。夫婦の年金は月約23万円です。
正夫さんの退職後も民間の賃貸マンションに住んでいましたが、家賃は月9万円ほど。預貯金は約700万円まで減り、今後の生活を考えて市営住宅へ申し込みました。
当選したのは2DKの部屋で、家賃は収入に応じて決まります。
国土交通省『公営住宅制度の概要』によると、公営住宅は住宅に困窮する低額所得者に低廉な家賃で住宅を供給する制度で、入居には収入などの要件があります。具体的な募集条件や家賃は自治体、世帯状況によって異なります。
夫婦にとって、市営住宅への住み替えは家計を立て直すための前向きな選択でした。
しかし祐美さんにとっては別の問題がありました。両親はこれまでも、何かあるたびに祐美さんを頼っていたのです。
スマートフォンの契約変更、役所への手続き、家具の処分、病院への送迎。正夫さんが退職して時間に余裕ができてからも、
「祐美のほうが詳しいから」
「車で来てもらったほうが早いから」
と頼まれることが続きました。引っ越しについても、両親は祐美さんが手伝う前提で話を進めていました。
「業者は頼まないの?」
「もったいないでしょう。大きい家具だけ業者に頼んで、細かい荷物は祐美の車で運べばいいと思って」
祐美さんには仕事があり、中学生と小学生の子どももいます。それでも久美子さんは、「一日くらい何とかならない?」と頼みました。
祐美さんは結局、夫とともに引っ越しを手伝いました。
段ボールを運び、カーテンや照明を取り付け、足りない日用品を買いに行く。朝から始めた作業は夕方まで続きました。
帰り際、久美子さんは「やっぱり娘がいると助かるわ」と笑いました。しかし祐美さんにとって、休日を一日使って両親の用事を手伝うことは、すでに「少しくらいなら」と受け流せることではなくなっていました。
総務省『令和5年住宅・土地統計調査 住宅及び世帯に関する基本集計』によると、高齢者のいる世帯の81.6%は持ち家に住む一方、高齢単身世帯では32.2%が借家に居住しています。高齢期の住まい方は一様ではなく、収入や家族構成に応じて住み替えるケースもあります。
