「ありがとう」より先に話すべきだったこと
翌朝、孝夫さんはいつもの時間に目を覚ましました。出勤する必要はありません。
リビングへ行くと、美智子さんは朝食を準備していました。孝夫さんは食卓につきかけて、前日の言葉を思い出しました。
「コーヒー、俺が入れようか」
美智子さんは少し驚きました。
その日、夫婦は旅行の話ではなく、退職後の生活について初めて具体的に話しました。
朝食と昼食は、それぞれ自分で用意する日をつくる。夕食は美智子さんが担当する日と、孝夫さんが作る日を決める。掃除機がけと風呂掃除は孝夫さんが担当し、買い物も一緒に行くことにしました。
さらに、美智子さんにも週に何日か自由に使える時間を確保します。
美智子さんは以前から友人と美術館へ行ったり、習い事を始めたりしたいと考えていました。しかし夫が退職すれば、「昼食を用意しなければ」と考えてしまうのではないかと不安だったといいます。
「私も、これからの時間を自分のために使いたいの」
その言葉を聞き、孝夫さんはようやく、退職後の自由は自分だけのものではないと理解しました。
退職金についても話し合いました。2,600万円をすぐに大きく使うのではなく、旅行費用、住宅の修繕、今後の医療や介護に備える資金などに分けて考えることにしました。
厚生労働省『令和5年就労条件総合調査』によると、勤続20年以上かつ45歳以上の定年退職者の平均退職給付額は、大学・大学院卒(管理・事務・技術職)で1,896万円。孝夫さんの2,600万円は平均を上回る水準ですが、退職後の生活が長期化するなかでは、まとまった退職金も将来の生活資金として計画的に使う必要があります。
結局、旅行はすぐには予約しませんでした。数ヵ月後、夫婦で家事の分担が定着してから、美智子さんが以前から行きたかった温泉地へ2泊することにしました。
「最初は、退職金で旅行に連れて行けば喜ぶと思っていました。感謝するなら、まず妻がこれまで何をしてきたのかを考えるべきだったんですよね」
退職後は、夫婦が同じ家で過ごす時間が大きく増えることがあります。それまで一方が担っていた家事や生活上の役割をそのままにすれば、在宅時間が増えた側だけが自由になり、もう一方の負担が増えることもあります。
定年を迎える前後には、旅行や趣味といった楽しみだけでなく、家事の分担や一人で過ごす時間、老後資金の使い方まで具体的に話しておくことが、夫婦それぞれの退職後の暮らしを整えることにつながります。
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