「好きなところへ行こう」夫が用意した退職祝い
「今日まで本当にありがとう。これ、二人で使おうと思って」
最終出社を終えた孝夫さん(仮名・65歳)は、帰宅すると妻の美智子さん(仮名・63歳)に旅行会社のパンフレットを差し出しました。
40年以上勤めた会社をこの日、定年退職。退職金は約2,600万円です。
美智子さんは結婚後に仕事を辞め、二人の子どもを育てながら専業主婦として家庭を支えてきました。子どもたちはすでに独立し、現在は夫婦二人暮らしです。
孝夫さんは、定年を迎えたら妻へ何か大きな恩返しをしたいと考えていました。
「ヨーロッパでも北海道でも、好きなところを選んでよ。時間はたっぷりあるんだから」
自分では、喜んでもらえると思っていました。しかし、美智子さんの反応は想像と違いました。
「旅行?」
「ずっと苦労かけたからさ。退職金も入ったし、これくらいはいいだろう」
美智子さんはパンフレットを閉じました。
「あなたは何も分かっていない」
孝夫さんは意味が分かりませんでした。
旅行が嫌なのか。退職金を使うことに反対なのか。理由を尋ねると、美智子さんはこれまで言えなかったことを話し始めました。
孝夫さんは現役時代、平日は朝早く家を出て、帰宅は午後9時を過ぎることも珍しくありませんでした。休日も仕事関係のゴルフや付き合いがあり、家事のほとんどを美智子さんが担ってきました。
定年後についても、孝夫さんが話すのは「旅行へ行きたい」「平日にゴルフをしたい」「家でゆっくりしたい」といった自分の予定ばかりだったといいます。
「これから毎日あなたが家にいるでしょう。でも、食事も洗濯も掃除も、今までどおり私がすると思っているんじゃない?」
孝夫さんは答えに詰まりました。実際、退職後の家事分担について考えたことはありませんでした。
「旅行に連れて行けば感謝になると思ってる。でも私が気になっているのは、その後の毎日のことなの」
美智子さんにとって、夫の退職は「夫が自由になる日」であると同時に、自分の生活も変わる日だったのです。
