近くに住む娘が、大きなスーツケースを持ってきた日
「近くから来たのに、ずいぶん大きなスーツケースね」そう娘に声をかけたのは、72歳の上村和子さんです。
和子さんは74歳の夫・正夫さん(仮名)と、都内の築30年を超える戸建てで暮らしています。正夫さんはメーカーを定年退職し、現在の年金は月約15万円。ほぼずっと専業主婦だった和子さんの年金と合わせると、夫婦の収入は月約23万円です。
住宅ローンは完済済み。金融資産も約2,300万円あり、決して困窮しているわけではありません。ただ、固定資産税や家の修繕費、今後の医療・介護費を考えれば、自由に使えるお金が多いわけでもありませんでした。
夫婦には、42歳になる一人娘の美希さん(仮名)がいます。正社員として働く美希さんは、夫と小学4年生の娘の3人家族。実家とは車で15~20分ほどの近居で、普段から孫を連れて顔を見せていました。
夏休みに入ったある日、美希さんから「夫も単身赴任中だし、少し長めに泊めて」と連絡が。和子さんは、働きながら子育てをする娘を以前から気にかけていました。自身は家庭に入って子どもを育てた世代です。仕事を終えてから食事の支度や洗濯に追われる娘を見るたび、「私にできることがあれば」と思っていたのです。孫と長く過ごせることも、正直嬉しく感じました。
ただし、違和感は初日からあったのも事実です。
美希さんが持ってきたのは、数泊分とは思えないほど大きなスーツケース。中には着替えだけでなく、孫の塾教材や学校用品まで。おまけにテレワーク用に自宅で使っていたはずのデスクトップパソコンや周辺機器まで運び込まれてきました。「テレワークもあるから、家のパソコン一式持ってきちゃった」。美希さんはそう笑いました。
ところが、滞在が2週間近くになっても、スーツケースは全開のまま。服は畳の上に広がり、押し入れにも娘と孫の荷物が増えていきます。
孫の夏休みは、残すところ、あと1週間です。
正夫さんも内心では気になっていましたが、「聞けば娘に嫌な思いをさせるかもしれない」という遠慮が先に立ち、しばらくは黙って様子を見ていました。それでも夕食後、できるだけ穏やかな声で尋ねます。
「美希。ところで、いつまでここにいるんだ?」
一瞬の沈黙のあと、美希さんは思いもよらない言葉を口にしました。
「帰るところ、ないんだ。マンション、もう売っちゃったから」
正夫さんが固まると、美希さんは続けました。
「ほかの荷物はとりあえずトランクルームに預けてるの」


