「ここなら年金だけでも暮らせる」夫婦が選んだ山あいの一軒家
「朝、鳥の声で目が覚めるなんて、都会では考えられなかったな」
庭先に椅子を並べながら、正志さん(仮名・71歳)は満足そうに言いました。
妻の和美さん(仮名・71歳)と山あいの町へ移り住んだのは、5年前のことです。会社員時代を都市部で過ごした正志さんは、定年後まで満員電車や周囲の騒音に悩まされる生活を続けたくないと考えていました。
夫婦の年金は合わせて月約25万円。都市部にあったマンションを約3,400万円で売却し、その一部を使って、築25年の戸建てを1,200万円で購入しました。残った住宅ローンを清算しても、預貯金は約2,000万円残りました。
家は、移住相談会で紹介された地域にありました。敷地は広く、窓から山が見えます。近所の住民から野菜をもらい、春には庭で花を育てる生活は、長年思い描いていた老後そのものでした。
固定資産税は以前より安く、駐車場代もかかりません。食費や光熱費などを合わせても、毎月の生活費はおおむね20万円以内に収まっていました。
ただし、最寄りのスーパーまでは車で約20分。役場や銀行へ行くにも車が必要です。最寄りのバス停は自宅から徒歩15分ほどでしたが、運行は平日の朝夕を中心に数本だけでした。
「車があれば何の問題もないよ」
移住前、正志さんはそう考えていました。
夫婦は日常の移動をすべて車に頼るようになりました。食料品は週に一度まとめ買いし、重い米や飲料水も車で運びます。和美さんは運転免許を持っていましたが、もともと運転が苦手で、知らない道や雨の日にはハンドルを握りません。実質的に、運転は正志さん一人が担っていました。
変化が起きたのは、移住から5年目の冬でした。
朝、車を出そうとした正志さんが、凍結した玄関前で足を滑らせたのです。骨折は免れたものの、強く腰を打ち、医師から1週間ほど運転を控えるよう言われました。
冷蔵庫には、牛乳と卵、数日前の作り置きしか残っていません。和美さんは自分で運転しようとしましたが、前夜に雪が降り、道路の一部が凍っていました。
「怖くて、とても車を出せない」
路線バスを調べると、次の便は約3時間後。スーパーから戻る便は、さらに数時間待たなければなりません。タクシー会社に電話しても、雪の日で予約が詰まり、すぐには迎えに行けないと言われました。
結局、夫婦は近所の人に連絡し、食料品を買ってきてもらいました。
「たった1週間、車に乗れないだけで、何もできなくなるとは思わなかった」
正志さんは、玄関に置かれた買い物袋を見ながら、初めて移住後の生活に不安を感じました。
農林水産政策研究所は、「食料品アクセス困難人口」を、食料品店まで500メートル以上あり、自動車の利用が難しい65歳以上の高齢者と定義しています。2020年の推計では全国で904万人、65歳以上人口の25.6%に上りました。
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