「この家は残せない」父が息子に頭を下げた日
「翔一は、何年後にここへ住むつもりなんだ?」
達郎さんが尋ねると、翔一さんは「まだわからない」と答えました。子どもの進学や妻の仕事もあり、少なくとも数年以内に引っ越す予定はないといいます。
達郎さんは続けて、屋根や外壁の修繕費、毎年の固定資産税、庭の管理をどうするのか尋ねました。
「お父さんが住んでいる間は、今までどおりでいいんじゃない?」
達郎さんは返事ができませんでした。家を残してほしいという希望を受け入れても、維持費を負担したり、定期的に手入れをしたりするつもりまではなかったのです。
数日後、達郎さんは翔一さん夫婦を自宅に呼びました。修繕の見積書と、住み替え先として考えているマンションの資料を食卓に並べ、頭を下げました。
「申し訳ないけど、この家は残せない。お前たちに渡す前に、俺が暮らせなくなってしまう」
翔一さんは「そこまで大変だとは思っていなかった」と話しました。
達郎さんは、思い出を否定したかったわけではありません。ただ、現在の家を維持するために預金を減らし続ければ、今後の医療費や介護費に備えられなくなります。
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の単身無職世帯では、可処分所得が月約11万8,000円である一方、消費支出は約14万8,000円。平均では毎月の支出が手取り収入を上回り、不足分を資産の取り崩しなどで補う家計となっています。
達郎さんの自宅は約2,300万円で売却されました。その資金の一部で、駅から徒歩圏内にある中古マンションを購入。部屋は以前の半分以下の広さですが、生活は一つの階で完結し、庭の手入れも必要ありません。
引っ越しの日、翔一さんは庭に咲いていた妻の花を小さな鉢へ移し、新居まで運んでくれました。
「家を残してほしいと言ったけど、親父が苦労して守ることまで考えていなかった」
その言葉を聞き、達郎さんはようやく肩の力が抜けたといいます。
家族との思い出が詰まった家であっても、それを維持するには費用も体力も必要です。子どもに家を残したいという思いと、自分の老後を守ることは、必ずしも両立できるとは限りません。達郎さんにとって戸建てを手放す決断は、これからの暮らしを守るための選択でした。
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