予定のない手帳を埋めようとしたけれど
最初の数週間、信一さんは退職後の生活を楽しもうとしました。
平日のゴルフに出かけ、由紀子さんと温泉旅行にも行きました。書店で歴史小説をまとめて買い、以前から興味のあった料理にも挑戦しました。
しかし、旅行は毎週できるものではありません。ゴルフ仲間の多くはまだ働いており、平日に誘える相手も限られていました。料理も、数品作ると満足してしまいました。
会社を辞めて2ヵ月が過ぎても、信一さんは毎朝、手帳を開いていました。しかし、会議や出張で埋まっていたページには、歯科医院の予約やごみ収集日程度しか書かれていません。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』によると、60~64歳男性の84.0%が就業しています。60歳で仕事を完全に離れる人は、同世代の男性では少数になっています。
また、収入を伴う仕事をしている高齢者では、「働けるうちはいつまでも」働きたいと考える人が最も多く、「70歳くらいまで」またはそれ以上働きたい人は8割を超えています。
信一さんが失ったと感じていたのは、収入だけではありませんでした。
「会社にいたころは、毎日誰かに判断を求められた。忙しくて嫌になることもあったけど、自分が必要とされていると思えたんだ」
由紀子さんに初めてそう打ち明けたのは、退職から3ヵ月後のことでした。
「働きたいなら、前の会社に戻らなくてもいいんじゃない?」
その一言をきっかけに、信一さんは再就職先を探し始めました。
かつての肩書や年収にこだわると、応募できる仕事はほとんどありません。それでも、地元の中小企業を支援する機関で、週3日、営業相談を受ける仕事を見つけました。
報酬は現役時代とは比べられないほど少額です。それでも初出勤の前夜、信一さんは久しぶりに手帳へ予定を書き込みました。
「明日は、若い社長の相談を聞くんだ」
うれしそうに話す夫を見て、由紀子さんは、必要だったのは予定を増やすことだけではなかったのだと感じました。
定年後の暮らしでは、趣味や旅行を用意するだけでなく、自分が誰と関わり、どのような役割を持ちたいのかを考えることも必要です。信一さんにとって、ひとりきりの昼食でこぼれた一言は、肩書のない自分の暮らしを考え始めるきっかけになったのでした。
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