取締役候補と呼ばれた男性が断った再雇用
「今日で最後か。長かったな」
最終出勤日の朝、信一さん(仮名・60歳)は、いつもより丁寧にネクタイを締めました。
大学卒業後に入社した機械メーカーで、38年間勤務。営業畑を歩き、50代で本部長に就任しました。取締役候補と呼ばれた時期もありましたが、会社の業績悪化や組織再編もあり、役員には届かないまま60歳の定年を迎えました。
会社からは65歳までの再雇用を打診されていました。
高年齢者雇用安定法では、企業に対し、定年制の廃止、65歳までの定年引き上げ、希望者全員を対象とする継続雇用制度の導入のいずれかを求めています。ただし、60歳で定年を迎えた人が、それまでと同じ役職や待遇で働けることを保障する制度ではありません。
信一さんに提示されたのは、週4日勤務の契約社員でした。年収はそれまでの半分以下。仕事内容は、若い営業担当者への助言や資料の確認が中心です。
「昨日まで部下だった人に指示されて、補助役になるのはつらいな」
妻の由紀子さん(仮名・58歳)にそう漏らし、再雇用を断りました。
退職金と貯蓄があり、住宅ローンも完済しています。公的年金を受け取るまでの生活費も準備していました。
「少しくらい休んでもいいでしょう。旅行にも行けるし」
由紀子さんの言葉に、信一さんも笑ってうなずきました。
退職当日には、部下たちから花束と記念品を贈られました。送別会では何人もの社員が列を作り、「信一さんに育ててもらいました」「また相談させてください」と声をかけました。
帰宅後、信一さんは花束を食卓に置き、満足そうに言いました。
「やっと自由になったな」
ところが、翌朝は午前6時に目を覚ましたものの、着替える理由がありませんでした。
新聞を読み、テレビを見ても、まだ午前9時です。由紀子さんは週4日、近所の医療施設で事務のパートをしており、その日もすでに出勤していました。
昼になると、信一さんは冷蔵庫から昨夜の残り物を出しました。これまで昼食は部下や取引先と食べることが多く、一人で自宅の食卓に座るのは久しぶりでした。
電子レンジの音だけが響く部屋で、信一さんは独り言のようにつぶやきました。
「明日から、何をすればいいんだろう」
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