静かに話し始めた…妻が本当に欲しかったもの
「子どもが小さいころ、あなたが早く帰ってきた日はうれしかったの」
恵美さんは静かに話し始めました。
運動会や授業参観に来てほしかったこと。休日に家族で出かけたかったこと。自分が熱を出した日に、「仕事があるから」と言われ、子どもの世話まで一人でこなしたこと。
「何か買ってほしかったわけじゃないの。一緒にご飯を食べたり、家のことを少しやってもらったり、それだけでよかった」
浩一さんには、初めて聞く話ばかりでした。もちろん、家族をないがしろにしていたつもりはありません。長時間働き、収入を得ることが家庭を守ることだと考えていました。
「仕事を頑張ることが家族のためだと思ってた」
そう話すと、恵美さんは答えました。
「それもわかってる。でも、私が欲しかったものとは違ったの」
この一言が、浩一さんには最もこたえたといいます。
総務省『社会生活基本調査』では、家事関連時間について男女差が長年みられます。特に夫婦の家事分担は、現役世代だけでなく、退職後の生活にも影響します。仕事を離れたからといって、それまでの家庭内の役割が自然に変わるわけではありません。
最終的に時計の返品はせず、恵美さんが「せっかくだから使う」と受け取ることになりました。
ただし、それで話が終わったわけではありません。
退職後、浩一さんは週に2回夕食を担当するようになりました。最初は総菜を並べるだけでしたが、少しずつ料理も覚えています。
恵美さんが友人と出かける日は、洗濯や掃除も自分で済ませます。月に一度は二人で外食し、旅行も「どこへ行くか」より「一緒に予定を立てること」を大切にするようになりました。
「120万円の時計より、今のほうが妻には喜ばれている気がします」
浩一さんは苦笑します。
退職金は老後の生活を支える大切な資金です。まとまったお金を使って感謝を示すことが悪いわけではありません。
ただ、長年連れ添った相手への感謝が、高価な贈り物だけで伝わるとは限りません。
「何をあげれば喜ぶか」ではなく、「これまで相手は何を求めていたのか」。退職という節目は、夫婦でその答えを初めて言葉にする機会にもなるのかもしれません。
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