「便利なのに落ち着かない」手放してから気づいたもの
典子さんが最もなじめなかったのは、部屋の狭さでした。
戸建て時代には別々の部屋で過ごす時間もありましたが、新居では常に互いの気配があります。テレビを見たい和夫さんと、静かに本を読みたい典子さんが衝突することも増えました。
収納も足りません。引っ越し前に大量の家財を処分したものの、季節の布団や子どもたちのアルバムまで捨てる決心はつかず、結局トランクルームを月1万円ほどで借りることになりました。
さらに夫婦が予想していなかったのが、人付き合いの変化でした。
以前の家では、向かいの夫婦と玄関先で話し、近所の友人とお茶をすることもありました。同じ市内への引っ越しとはいえ、生活圏が変わると偶然会うことはほとんどありません。
「わざわざ会う約束をするとなると、どうしても回数が減るんですよね」
内閣府の同調査では、住み替えを実現できていない理由として、「住み替え先に馴染めるか不安がある」「友人・知人等と疎遠になる」といった回答もみられます。住宅そのものの条件だけでなく、新しい地域での人間関係も住み替えを考えるうえで無視できない要素です。
金銭面でも想定外がありました。
管理費と修繕積立金は合わせて月約4万円。さらに入居後、将来の大規模修繕に備えて修繕積立金が引き上げられることになりました。
戸建てなら修理時期をある程度自分たちで決められましたが、マンションでは毎月決まった費用が出ていきます。
ある日、近くまで出かけた夫婦は、以前暮らしていた家の前を通りました。庭には新しい住人が植えた花があり、子ども用の自転車が置かれていました。
典子さんがぽつりと言いました。
「あの家、残しておけばよかったのかな」
すでに他人の家です。戻ることはできません。
和夫さんも、住み替えそのものが間違いだったとは思っていません。買い物や通院は確実に楽になり、車の運転を続ける不安もなくなりました。
ただ、「便利になればそれで満足できる」と考えていたことには、夫婦とも後悔があるといいます。
「家の広さや庭だけじゃなかったんですよね。30年そこで暮らして、近所の人もいて、それ全部をまとめて手放したんだと、あとから気づきました」
高齢期の住み替えでは、将来の身体機能や交通の便を考えることは重要です。しかし、「今の家で何を失いたくないのか」を整理せずに売却すれば、新居の便利さだけでは埋められないものが残ることもあります。
購入や売却を急ぐ前に、新しい街で一定期間過ごしてみるなど、自分たちの生活がどう変わるかを具体的に想像することも必要でしょう。住み替えは家を替えるだけではなく、それまで築いてきた暮らしそのものを組み替える決断なのです。
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