「できなくなったこと」ではなく、「今できること」を探して
由紀子さんは帰り道、駅のベンチに座ったまましばらく動けませんでした。施設に入れば、母の生活は安定する。そう思っていました。実際転倒の不安は減り、薬の管理も任せられるようになりました。それでも、母が少しずつ変わっていく現実までは止められません。
次の面会日、由紀子さんは職員に相談しました。
「母が好きだったものを持って行っても、もう迷惑でしょうか」
職員は首を振りました。
「お気持ちはとても大切です。ただ、食べ物は安全面があります。写真を見せたり、昔の話をしたりするだけでも、穏やかな時間になることがありますよ」
その言葉を聞き、由紀子さんは少し考え方を変えました。次に持って行ったのは食べ物ではなく、昔のアルバムでした。若い頃の敏子さん、家族旅行、孫を抱く写真。敏子さんはすべてをはっきり覚えているわけではありませんでしたが、写真を見て何度か微笑みました。
「この着物、きれいね」
「お母さんが選んだんだよ」
会話は長く続きません。それでも、由紀子さんはその短いやり取りを大切に感じました。
由紀子さんは、面会のたびに職員へ母の様子を聞くようになりました。食事の形態、眠れているか、好きな音楽に反応するか。以前の母に戻すことではなく、今の母にとって心地よい時間を探すようになったのです。
親が施設に入ったあとも、家族の迷いは終わりません。会うたびに変化を悟り、できなくなったことに傷つくこともあります。それでも好物を食べられなくなった母に、別の形で思いを届けることはできます。
かつての親を追いかけるだけでなく、今目の前にいる親とどう向き合うか。その積み重ねが、施設入居後の家族にできる大切な関わりなのかもしれません。
【関連記事】
■税務調査官「出身はどちらですか?」の真意…税務調査で“やり手の調査官”が聞いてくる「3つの質問」【税理士が解説】
■親が「総額3,000万円」を子・孫の口座にこっそり貯金…家族も知らないのに「税務署」には“バレる”ワケ【税理士が解説】
■「銀行員の助言どおり、祖母から年100万円ずつ生前贈与を受けました」→税務調査官「これは贈与になりません」…否認されないための4つのポイント【税理士が解説】

