老人ホーム入居「これで安心」と思っていたが…
由紀子さん(仮名・60歳)は、89歳の母・敏子さん(仮名)が入居する老人ホームを月に数回訪ねています。敏子さんの年金は月14万円ほど。入居しているのは介護付き有料老人ホームで、月々の費用は年金だけでは足りず、不足分は敏子さんの預貯金から補っていました。
敏子さんはもともと一人暮らしをしていましたが、80代後半になってから転倒が増え、火の消し忘れも目立つようになりました。由紀子さんは仕事を続けながら通っていましたが、夜中に電話が来ることもあり、次第に限界を感じるようになります。
「お母さんを施設に入れるなんて、薄情なのかな」
そう悩んだ時期もありました。しかし医師やケアマネジャーから「一人暮らしを続けるのは危険が大きい」と言われ、施設入居を決めました。
入居後、敏子さんは規則正しい食事と見守りのある生活に少しずつ慣れていきました。由紀子さんも、母が安全な場所にいることに安心しました。
「これで、お互い少し落ち着けるね」
入居からしばらくは、そう思えていました。
ある日、由紀子さんは母の好物だったいなり寿司を持って面会に行きました。昔から敏子さんは甘めの酢飯が好きで、家族が集まる日はよく自分で作っていました。
「お母さん、好きだったでしょう。少し持ってきたよ」
由紀子さんがそう言うと、敏子さんは包みを見つめました。しかし、以前のように顔をほころばせることはありませんでした。
そばにいた職員が、静かに声をかけました。
「最近、飲み込みが少し弱くなっていて、食べ物は確認してからにしています」
由紀子さんは言葉を失いました。母の好物を持ってくれば喜ぶと思っていたのに、今の母には、それをそのまま食べることさえ難しくなっていたのです。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』によると、65歳以上の第1号被保険者のうち、要介護認定を受けている人の割合は85歳以上で44.5%に上ります。年齢を重ねるほど、食事、移動、認知機能などに支援が必要になる人は増えていきます。
敏子さんは、いなり寿司を見ながらぽつりと言いました。
「これ、誰が作ったの?」
その瞬間、由紀子さんは胸が締めつけられました。母の好物を持ってきたはずなのに、そこにいたのは、かつて台所で手際よく料理をしていた母とは少し違う人のように見えたのです。
