我慢の限界…きっかけは「昼食時のひと言」
転機は、退職から3ヵ月ほどたった頃訪れました。
その日、美紀さんは簡単にうどんを出しました。すると夫は箸を持ちながら、こう言ったといいます。
「ずっと家にいるんだから、もう少しちゃんとしてほしいな」
美紀さんはその瞬間、言葉が出なくなりました。毎日3食を用意し、洗濯や掃除もしているのに、それでも「足りない」と言われたように感じたからです。
その夜、初めて夫に言いました。
「私、しばらく別に暮らしたい」
夫は驚いた表情で、「そこまで大げさに考えることか」と返しました。しかし美紀さんにとっては、大げさではありませんでした。毎日同じ空間にいて、相手の都合に生活を合わせ続けることが、すでに限界だったのです。
「離婚したかったわけじゃないんです。とにかく一度、離れたかった」
美紀さんが選んだのは、離婚ではなく別居でした。自宅から電車で30分ほどの場所に小さな賃貸マンションを借りたのです。
夫婦の共有財産や退職金は、本来、老後の生活を支える大事なお金です。だからこそ、美紀さんも最初は迷ったといいます。ただ、心身をすり減らしたまま同じ家に居続ける方が、結果的にはもっと大きな損失になる気がしたとも語ります。
夫は当初、「そんなことをして何になる」と反発しましたが、美紀さんは荷物を最小限にまとめ、静かに家を出ました。
別居後しばらくして、美紀さんはようやく落ち着いて眠れるようになりました。昼食を何にするかを聞かれず、出かける先を説明しなくてもいい生活は、想像以上に楽だったといいます。
「家に誰もいないって、こんなに静かなんだと思いました」
一方で、夫も一人で生活する中で初めて気づいたことがあったようです。洗濯機の使い方が分からず、美紀さんに電話をかけてきたこともありました。冷蔵庫の中身をどう回せばいいのか分からず、同じ総菜を何日も続けて食べていたこともあったそうです。
ある日、夫はぽつりとこう言いました。
「俺、会社を辞めたら楽になると思ってた」
美紀さんは、その言葉を聞いて少しだけ肩の力が抜けたといいます。夫もまた、退職後の生活をうまく作れずに戸惑っていたのだと分かったからです。
